だから天才は“問題提起“を諦めた──ハハノシキュウ「戦極MCバトル30章」レポ
2023.08.05
クリエイター
この記事の制作者たち
米津玄師の曲について考えてみるとき、私たちは人間になる。
独りぼっちの人間となって、彼の曲を聴く。この世が途方もなく広いことや、自分の理解しえない価値観が外側に向かってどこまでも続いていることを知る。
目次
- 米津玄師『感電』に見る刹那と仏教
- 米津玄師の仏教観
- 米津玄師にとっての「Where」は何処か
- 米津玄師楽曲における「キャラバン・メロディ」の仏教性
- それぞれの刹那を共生するということ
※本稿は、2020年にKAI-YOU.netで配信された原稿を再構成したもの
『感電』と名付けられたその曲を聴いて、確信を得たことがある。彼、米津玄師が仏の教えに通じる哲学を根幹にして人生という長い道を歩き続けており、それ自体を音楽として体現しているのではないか、ということだ。
日本人には親しみ深い仏教の教えを、彼は音楽を通して、説教という形ではなく──あくまで「好きなように聴く」ものとして提示してみせている。
「稲妻の様に生きていたいだけ」「それは心臓を刹那に揺らすもの」 米津玄師『感電』より
“刹那”とは、きわめて短い瞬間やその事象を指す言葉である。その言葉はもともと仏教から伝わった言葉で、この「一瞬の事象や現象に対していう言葉そのもの」が、米津玄師というアーティストの創り出す楽曲に通じるエッセンスのように思える。
「感電」のMVでロケ地に選ばれたのは、老舗の遊園地・としまえんのメリーゴーランド前。2020年8月31日をもって閉園した、終わりまでの期限つきの場所だった。
人間の刹那的な享楽を具現化したともいえる遊園地、まるで“輪廻”を思わせる回転するメリーゴーランド。まもなく終焉を迎える、その場所。
そこで愉しそうに踊り歌う姿からは、私たちは刹那の中で生きているのだと、痛いほどに感じることができる。
他の楽曲を聞いてみても、エッセンスとしてちりばめられた仏教の考え方を節々に垣間見ることができる。
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死について、あるいは“諸行無常”と“刹那”
様々なジャンルの最前線で活躍するクリエイターや識者を中心に、思想や作品、実態に迫る取材をお届け
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