「VTuberはギャルと一緒」バーチャルシーンの“北極星”キズナアイの功績と、魂の在り方
2024.08.12
『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』(以下『マギレコ』)というアプリゲームがある。いや、あった。
2017年8月22日よりソニーミュージック傘下のアニプレックスとゲーム開発会社・f4samuraiとの協業体制でサービスを開始し、ゲーム内ムービーの制作は『魔法少女まどか☆マギカ』(以下『まどマギ』)から引き続き、アニメーション制作会社・シャフトが担当した。
メインストーリーは大きく第1部「幸福の魔女編」と第2部「終結の百禍編」に分かれている。2020年から2022年にかけては、第1部の内容をベースに同じくシャフト制作による『マギレコ』のテレビシリーズ(以下アニメ版)も放送され、『まどマギ』がアート方面からも評価される一因となった「魔女空間」デザイン担当の劇団イヌカレー・泥犬が、総監督という立場で関わったことも話題となった。
そして2024年7月31日にアプリ本体が、約7年間の歴史に幕を下ろしたのだった。
目次
- 「円環の理」の外側──『マギレコ』の基本設定
- 『まどマギ』の世界観を再解釈した『マギレコ』第1部
- 私たちはシステムの従属者である──『マギレコ』第2部の問いかけ
- 『マギレコ』が向き合った「ソーシャルゲーム」性
- プレイヤーの抱える矛盾の告発──「小さいキュゥべえ」とは何だったのか
- 「語られざる者たちの生はいかに肯定されうるのか」というテーマ
- シナリオ中に現れる「システム」の比喩を、私たちはどう受け止めるべきなのか?
- アプリゲームの批評は可能なのか? あるいはデジタルプラットフォームの「ユーザー」は、「人間」に戻ることができるのか?
無料パートのうちに、急ぎ一番言いたいことを書いておく。『マギレコ』は、とにかくストーリーが面白いアプリゲームだったのだ。
その一部は、後継アプリとして2024年リリース予定の『魔法少女まどか☆マギカ Magia Exedra』公式YouTubeチャンネルで動画として公開されるとのことなので、お時間のある方はぜひ覗いてみてほしい。特にアニメ版『マギレコ』の、今日び珍しいバッドエンドっぷりに心を痛めてしまった人には。
『マギレコ』はその正式タイトル通り『まどマギ』の外伝という位置づけとなっており、『まどマギ』の世界観の根幹をなす、普通の少女が「願い」と引き換えに「魔法少女」となり、「魔女」と戦い続け魔力を消耗した果てに自らも「魔女」となるというシステムは引き継がれている。
大きく異なるのは設定上、『まどマギ』テレビシリーズの最後に現れた「円環の理」から分離した小宇宙を舞台としている点だ。
「円環の理」といえば、主人公・鹿目まどかの願いから生じた、すべての時間・空間に存在する魔法少女が魔女化しないようにする(擬人化された)システムだった。ビジュアル的には、女神のような衣装をまとったまどかとして描かれる。
『マギレコ』の世界は、その「円環の理」システムの一種のバグのような事態として「円環の理」から分離してしまった世界であり、彼女(?)曰く干渉することができず、しかし遠くから見守ることはできるのだという。
アニメ版『マギレコ』の物語は、アプリ版『マギレコ』の物語を「正史」とするこの小宇宙の、「円環の理」によるシミュレーションとして位置づけられていると、アニメ版の総監督を務めた劇団イヌカレー・泥犬が放送後に明かした(なお、下記引用内にある「黒江」は、泥犬の監修によって生まれた、アニメ版オリジナルキャラクターの名前である)。
アニメ版マギレコ は、アプリ版マギレコ という唯一宇宙を 円環内にその一部分を映し取って補完した形になります。
アプリ版マギレコ に出てくる黒江は、現在開催中のイベントでいろはと初対面になり、今後もアニメとは違う道を歩んでくれます。たぶん(f4さん次第)。— 劇団イヌカレー (@gekidaninucurry) April 4, 2022
つまり『マギレコ』世界が本来たどる物語は、バッドエンドを迎えたアニメ版のそれではなく、アプリ版で展開された第1部と、そこから続く第2部のそれである。
とはいえ、アプリ版とアニメ版とで、物語の初期条件に違いはない。
『マギレコ』主人公の「環いろは」は、忽然と消えてしまった妹「環うい」の手がかりを探しに神浜という街にやってくる。第1部の終盤に明かされることだが、「うい」は同じく難病を抱え入院していた「里見灯花(さとみ・とうか)」「柊ねむ」とともにキュゥべえから魔法少女システムの管理者権限を奪取する内容の契約を交わした。
しかしその際のアクシデントによって、神浜を魔法少女システムから隔離するサブシステムである「自動浄化システム」(ソウルジェムに溜まった穢れを魔女化ではなく「ドッペル」という形で放出するというもので、ゲーム内では、各キャラクターの「必殺技」扱いとなっている)の一部となってしまっていたのだった。
そして「灯花」「ねむ」は契約時の記憶を失い、協力者「アリナ・グレイ」とともに「マギウスの翼」という組織を束ね、「自動浄化システム」を完成させるために一般人をも巻き込むような暗躍をしている。
2人はキュゥべえを出し抜くほどのいわゆる「天才キャラ」として造形されており、彼女たちの行動原理は「革命」であると泥犬は定義している。魔法少女は希望を願った代償として人知れず戦い続け、やがて魔女になる。希望に殉じた高潔な存在として、その理不尽な運命にいかなる手段を用いても抗おう、という。
鹿目まどかによるシステムの書き換えは、暁美ほむらの時間遡行による「因果律の蓄積」を背景にしたアクロバティックな大逆転の一手だったが、「灯花」「ねむ」による書き換えはより現実的に、システムのほつれを目ざとく見つけ、内部からハッキングを仕掛けるような行為だ。
ちなみに「円環の理」の管理下にあるすべての時空において、「灯花」「ねむ」「いろは」「うい」の4人は決して魔法少女にはならない=病気や事故で若くして死んでしまうのだという。したがって彼女たちが生存し、こうしたサブシステムが構築されること自体が、宇宙レベルでのイレギュラーな事態である。
そんな第1部は「自動浄化システム」から「うい」を分離することに成功し、「灯花」「ねむ」の記憶も戻ったことでシステムを安定稼働させる道も拓けて(根本的な思想が異なる「アリナ」との対決なども挟みつつ)大団円を迎えた。
ちなみに最終局面では『まどマギ』における最強の魔女「ワルプルギスの夜」も登場し、同時アクセスしたプレイヤーの力を結集して打ち倒す、いわゆるレイドバトルイベントも開催された。
しかし私が特に強く鑑賞をおすすめするのは、ここから続く第2部である。あくまで『まどマギ』の世界観を再解釈しようとする姿勢が見られた第1部から打って変わって、「外伝」というにはあまりに独自なストーリーテリング、並びにテーマ性を『マギレコ』が打ち出し始めたのが、この第2部なのである。
第1部時点での「自動浄化システム」は神浜のみを適用範囲として稼働しており(その後のいろはたちはこの適用範囲を世界中に広げることを目標にしている)、エネルギー源として周囲の街から魔女を呼び寄せていたために神浜市外では魔法少女の魔女化を遅らせるためのドロップアイテム=グリーフシードが枯渇。その結果、資源をめぐる魔法少女同士の抗争が激化していたとして、「神浜への復讐」を掲げる市外の魔法少女集団との全面戦争が始まる……という展開で第2部は幕を開ける。
しかし話はそこで終わらず、山奥で人知れず巫女として国難を救うための人身御供をさせられていた魔法少女集団や、「魔法少女至上主義」を掲げる「マギウスの翼」の残党。さらには、一般人に迫害された経験から、そうした諸々を諦念とともに見つめる観測者的立ち位置の魔法少女集団などが次々と登場し、「自動浄化システム」の主導権をめぐって思惑が入り乱れていく(ちなみに各グループの結成前夜的なストーリーも、先述の公式YouTubeチャンネルで公開されることになっている)。
『まどマギ』にはテレビシリーズの続編として、2013年に公開された『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』、劇場版アニメ『叛逆の物語』、そして2025年の公開が予定される『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 〈ワルプルギスの廻天〉』という2本の劇場版アニメがある。『〈ワルプルギスの廻天〉』について、本稿執筆時点でストーリーの詳細はまだ明らかになっていないが、おそらく暁美ほむらの鹿目まどかに対する行き詰まった「巨大感情」にどうケリをつけるかという話にはなるのだろう。
どこまで行っても「まどか-ほむら」という閉じた二者関係の話に収束していく『まどマギ』という物語の根幹をなす設定を、物語から独立した無人称的な「システム」として取り出し、本来存在したはずの無数の魔法少女たちの物語を語るための装置として再利用してみせたところに、私が『マギレコ』に最大の賞賛を送る理由がある。
そもそも、「ループ」する主体がいてその救出対象であるヒロインがおり、しかし「ループ」主体ではなくヒロインのほうに「主人公」の座が移ることで物語の解決が図られるという『まどマギ』の構造自体、シナリオ担当の虚淵玄がノベルゲームの出身であり、一人称で進行するゲーム的なリプレイの経験を、三人称でリニアに進むテレビシリーズのアニメという形式にどう落とし込むかの工夫として実装されたものだったと言える。
「まどか-ほむら」という二者関係の行き詰まりとは、すなわちテレビシリーズのアニメという「始まり」と「終わり」が明確に存在する媒体が不可避に抱える限界でもあった。
「二者関係の煮詰まりを解消する」という課題に対して、あくまでアニメという媒体の枠内で(=新たな劇場版をつくることで)、キャラクターの関係を前に進めるという方向の解決ではなく、「システム」のリニアなプロットからの(再)分離、そしてアニメからゲームへの(再)装填という、ある種のメディウム・スペシフィシティ(媒体特殊性)を踏まえた解決を図ったところに私は面白さを見出したわけだ。
そして、『マギレコ』が単なるノベルゲームへの先祖返りではなく、マルチプレイを前提としたアプリゲーム──それは時に「ソーシャルゲーム」と呼ばれる──であった点も非常に重要である。
『マギレコ』の舞台となる神浜という地域には、新興都市であるがゆえの著しい東西の経済格差が存在し、それに基づく住民同士の根深い差別感情も存在するという設定がある(これを遠因として、魔法少女の奇跡にすがる子供たちも他の街に比べて多くなっている)。
第1部時点では上記の設定は背景情報にすぎなかったのだが、第2部ではこうした問題を正面から扱う、いよいよ文字通りの「社会派(ソーシャル)」なストーリーが展開されていく。
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