プロゲーマーから一般企業の経理に転身──今だから語れる、ゲーマー人生の幸福論
2025.02.23
ヒップホップは新しい考え方、生き方を教えてくれる。しばしばそう言われる。筆者である私、韻踏み夫もそのようにして教えを受け取った者の一人であるつもりだ。では、それは具体的にどのようなことなのか。どうしたらそれを言葉にして表現することができるのか。
そのような問いから、私は現在、2025年刊行予定の著書を執筆中である。以下の文章は、いわばその予告編のようなものにもなっている。
クリエイター
この記事の制作者たち
私は批評家であり、日本語ラップについて文章を書いている。それで、自分の文章を「日本語ラップ批評」と言ってみたりもしている。
日本語ラップと批評。たとえば、日本語ラップについて、私は100枚のアルバムを選定・レビューした日本語ラップのディスクガイド本である『日本語ラップ名盤100』(2022年,イースト・プレス)というのを書いた。
他方、批評ということで言えば、赤井浩太・松田樹編著『批評の歩き方』(2024年,人文書院)という本に、絓秀実という批評家についての文章を書いた。両者はまったくかけ離れて見えるようで、他の人からも、これが一人の人間のなかでどう折り合いがつきうるものなのかと、しばしば訝しげに見られたりもする。
赤井浩太・松田樹編著『批評の歩き方』(2024年,人文書院)Via Amazon
自分のなかでは、この二つがかけ離れているというような意識はほとんどなく、いわば「天然」でやっているのだが、最近、これをどう言葉にして説明すればいいのかわかってきた。
「日本語ラップ批評」と言うと、おそらくほとんどの人がそれを「日本語ラップを批評すること」を意味すると思うのではないだろうか。それはそうだろう。しかしながら、実を言うともはや私は──初めて言うのだが──「日本語ラップ批評」をそのようなものとしては捉えていない。より正確に言えば、そのようなものとしての「日本語ラップ批評」には、あまり可能性も興味も感じられなくなった。
では、私にとって「日本語ラップ批評」とは何であろうか。それは、こう説明することができる。「日本語ラップ的に批評すること」、これである。あるいは、「日本語ラップ的に批評しながら生きること」、「日本語ラップ的に生きながら批評すること」という風に言ってみてもいいかもしれない。
目次
- 「日本語ラップを批評すること」と「日本語ラップ的に批評すること」は、どのように異なっているか
- 「反復」と「肯定」こそが、日本語ラップ的である
- 発展とは、「今に欠如を見出す」様態である
- ビートの反復の上で、「ヒップホップ的ポジティヴネス/アグレッシヴネス」が歌われること
- アンダーグラウンドでマイノリティであることこそ「ど真ん中」であり「メジャー」である
- ヒップホップの、承認ではない肯定のコミュニケーション
- 書きながら踊ること、踊りながら考えること──
「日本語ラップを批評すること」/「日本語ラップ的に批評すること」。この二つの態度は、どのように異なっているのだろうか。
「日本語ラップを批評すること」、この態度においては、批評という知の主体が、日本語ラップという客体を論じる、という図式が前提とされている。ここでは、両者は分離されており、かつ主従関係が前提とされている。
日本語ラップはただただ分析される対象であり、批評はそこから超越した場所からジャッジしたり、分析したりする──しかし、そもそも、批評が日本語ラップより上位に来ていいなどと、誰が許しを出したのだろうか。そこには何の根拠もない。
他方、「日本語ラップ的に批評すること」というのは、次のような態度変更を意味する。日本語ラップは音楽、文化であり、もっと広く言って生のかたちであり、批評は端的に言って、知の、思考のあり方の一つである。日本語ラップという生のかたちと、批評という知=思考のかたち。生と知=思考。
なるほど、はじめ主観=主体としての批評は、その対象=客体として日本語ラップを見出すだろう。これが突き詰められたとき、主体と客体のそれぞれは、いつしか知=思考と生という深い領域にまで掘り下げられる。そしてこのような領域においては、知=思考と生は相互に絡み合うようになるのだ。
このとき、批評は、ある安定した、中立的で無差異で客観的な知であることをやめ、偏向的で差異的で発生的である生に取りつかれる。こうして批評はいつしか、日本語ラップ的に思考し始める。批評が日本語ラップを論じるのではなく、日本語ラップが批評のかたちを変えてしまう。このようなことがあってはいけないなどと、誰が決めたと言うのだろうか。
つまり、こうしたものとしての「日本語ラップ批評」を定義するならば、それは“日本語ラップ的なものを思考の原理とする知のかたちである”と言えるだろう。
では、日本語ラップ的、あるいはヒップホップ的であるとはどういうことだろうか。
私はそれを、二つのキーワードとして提出しよう。すなわち、「反復」と「肯定」。日本語ラップ的思考は、反復性の思考であり、かつ肯定性の思考であり、両者は深く絡み合っている。
まずは反復について。言うまでもなく、ヒップホップ・ミュージックを規定する最大かつ最重要の特徴とは、反復である。
ビートは反復する。押韻とは、類似音の反復である。Keep on, and you don’t stop! On & On & On! かように、ヒップホップは反復を本質として持つ。ブレイクビーツで一晩中踊っていることができる。人間にそんなことができるなんて、誰も思ってもみなかったことである。
スピノザという喜びの哲学者の有名な言葉に「我々は身体が何を為しうるかさえまだ知らない」というのがあるが、ヒップホップの誕生とはまさしくそのような身体の力能の増大だったと言える。
日本語ラップ批評は、まずヒップホップを分析することで、その本質として、このような反復性を発見する。そして私たちが試みる次の段階として、今度は、その反復性を自らの思考の原理へと高めあげる。
反復の反対は何であろうか。それは発展=展開であり、進歩である。このとき、発展=展開というのは、白人的、西洋的、近代的な思考の原理であることに気づかされる。社会は科学や技術の発展によって進歩し、進歩すればするほどに私たちの幸福も増大する。体制はそのように教えるし、私たちもそう思いこまされている。しかし本当にそうだろうか。
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