Review

  • 2023.07.30

浜崎あゆみにおける「セカイ系」の詩学──あるいはTohji的ロードサイドの風景について

11月刊行予定の『ferne vol.2 セカイ系✕音楽特集号(仮)』に収録の、主宰である北出栞氏による批評を先行公開。

2021年刊行の『ferne』創刊号についてはこちら

浜崎あゆみにおける「セカイ系」の詩学──あるいはTohji的ロードサイドの風景について

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2023年にデビュー25周年を迎えた浜崎あゆみ。アニバーサリーイヤーということで各種テレビ番組への出演が相次ぐほか、「Y2K」「平成レトロ」の文脈で視線を向けられる機会も増えている。

40歳を超え、いまでは母ともなった浜崎あゆみは、最新アルバム『Remember you』のジャケットでは漆黒のロングドレスをまとい、「伝説の歌姫」と呼ばれるに相応しい風格を誇っているように見える。新たに彼女を知ったリスナーからすれば、ともすると20年超の長きにわたり強かに芸能界を生き抜いてきた、「強い女性」のイメージを持つかもしれない

しかし1998年のデビュー時から全盛期とされる2000年代前半までの「浜崎あゆみ」とは、果たしてそんな存在だっただろうか?

「浜崎あゆみ」とは、時代の空気感とともに記憶されているひとつの現象だ。そう考えると、同時代の異ジャンルのカルチャーとのシンクロニシティや、その音楽が響いていた都市の風景がどんなものだったかに目を向けることこそ、彼女を語るにあたって必要なのではないか。

筆者が本稿で試みるのは、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)を象徴として『ほしのこえ』(2002)でジャンル化されたといえる「セカイ系」という言葉とともに、浜崎あゆみの世界を見つめ直すことである。

それによって、単なるノスタルジー消費の対象に留まるべきではない、浜崎あゆみ作品の現代におけるアクチュアリティを取り出すことが、本稿の目的である。

目次

  1. 「セカイ系」のメディア横断性
  2. 2000年代初頭の情報環境
  3. ケータイ小説の文法
  4. 場所性を欠いた「孤独」の表現
  5. 流動する人称表現
  6. トランスの音楽性を導入した意味
  7. オルタナティブなギターサウンド
  8. Tohjiの心象に浮かぶ、ロードサイドの風景
  9. 『リリイ・シュシュのすべて』における、地方都市とインターネットの二重性
  10. 「エーテル」の中の歌姫
  11. 失われたアンビエンスへの回路
  12. いま、浜崎あゆみを聴くということ

「セカイ系」のメディア横断性

まずは「セカイ系」についての整理から始めよう。

「セカイ系」とは一般に、「主人公と(たいていの場合は)その恋愛相手とのあいだの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる想像力」などと定義される※1、2000年代初頭にインターネット上の個人サイトから生まれたとされるバズワードである。

「セカイ系」という言葉のある種の画期性は、アニメ、小説、漫画、ゲームなど、様々なメディアにまたがる作品を上記の定義ひとつでジャンル化したというところにあった。先述した通りその象徴的作品は、庵野秀明を監督として1995年にテレビシリーズが放送され、1997年に完結編として劇場版が公開された『新世紀エヴァンゲリオン』である。

そして2002年に公開された新海誠の短編アニメ『ほしのこえ』は、この言葉が生まれた段階でその典型例として名指されていた(他によくセットで名前が挙がるのは、高橋しんの漫画『最終兵器彼女』と、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』である)。

ほしのこえ 予告編 (The Voices of a Distant Star)

「具体的な中間項」とは、家族や地域共同体などの社会領域を指すとされ、その欠落をもって当時の批評家に否定的な文脈で槍玉に挙げられることも多かった。しかし当該作品がこうした構造を持つに至ったのは、(特に『エヴァ』や『ほしのこえ』などのアニメ作品においては)単に限られた尺や話数に収めるための都合、言ってしまえば作画リソースを節約するための、純粋に技法的なものだったことも指摘されている(氷川竜介『日本アニメの革新』、角川新書、2022年など)。

重要なのは、なぜそのような大胆な省略を施した作品が、社会現象と言えるほどの熱狂を生み出すことができたのか、ということである。

その背景には当時の情報環境が大きく関係しているというのが、本稿で浜崎あゆみとセカイ系との関連性を扱うにあたっての仮説だ。

※1 東浩紀『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』(東京創元社、2013年)より

2000年代初頭の情報環境

2000年代初頭といえば、家庭用インターネットや携帯電話(ガラケー)が普及し始めた時期である。「サイバースペース」という比喩もあったほどに、ひとり狭い部屋から電子回路を通じて「向こう側の世界」へとたどり着くことができるのではないかという幻想が、素朴なロマンチシズムとして共有されていた。

一方でメールによるメッセージの送受信はきわめて速度が遅く、一度に送ることのできる情報量も限られていた。

世界、っていう言葉がある。私は中学のころまで、世界っていうのは携帯の電波が届く場所なんだって、漠然と思っていた。

これは『ほしのこえ』のヒロイン……というより、女性主人公と言っていいだろうミカコによる、作品冒頭でのモノローグだ。そこから垣間見えるように、「世界中どこにでもつながれる」インターネットというテクノロジーへの期待感と、一方でそのタイムラグによって生じるもどかしさに引き裂かれる情緒があったのが、当時のリアリティだったと言える。

地上に残された男性主人公のノボルと、宇宙船に乗って超光速で遠ざかっていくミカコのメール文通は、しだいにノイズ混じりとなり、思いを切々と虚空に向かって呟くしかなくなっていく。届くことのないお互いの思いを観客だけは聞くことができ、その交わらなさに切なさを覚えるのだ。

そんな当時のガラケーというメディアのリアリティを刻印した作品として、ケータイ小説も同様に挙げることができる。そして浜崎あゆみこそ、ケータイ小説の多くに影響を与えた存在なのである。

ケータイ小説の文法

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速水 健朗『ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』Via Amazon

速水健朗の著書『ケータイ小説的。 “再ヤンキー化”時代の少女たち』におけるケータイ小説の分析を見てみよう。そこで挙げられるケータイ小説と浜崎あゆみの歌詞の共通点とは、以下のようなものである。

1.回想的モノローグ
2.固有名詞の欠如
3.情景描写の欠如

こうして見るとセカイ系作品、とりわけ新海誠作品にも共通して見られる特徴と言えないだろうか。

先に引いた『ほしのこえ』の冒頭にも見られる「回想的モノローグ」はもちろんのこと、そのシナリオ上で固有名詞が重要な役割を果たすことは少ない(その代わりパッと見て新宿周辺とわかるなど、視覚情報としては過剰なほどに盛り込まれる)。

登場人物の台詞による情景描写も、画面の執拗なまでの細部へのこだわりとは対照的に、ただ「美しい」とかいった抽象的な言葉が並ぶことが常だ(『君の名は。』冒頭の「それはまるで、夢の景色のように、ただひたすらに美しい眺めだった」や『すずめの戸締まり』予告編の「迷い込んだその先には、全部の時間が溶け合ったような空があった」など)。

『すずめの戸締まり』

近年、固有名詞の乏しさや抽象的な情景描写といった特徴が表面上は薄れているようにも見えるのは、単に作品が長編化したからという理由もおそらく大きい。個人制作の短編作品である『ほしのこえ』の作風をベースに長編へと拡張した結果、固有名詞や情景描写にあたる情報を盛り込まざるを得なくなったという見方もできるはずだ(逆に言うと「回想的モノローグ」だけは長編化しても変わらず保たれており、新海誠作品を貫く随一の個性と言えるだろう)。

ちなみにケータイ小説の典型的なモノローグ表現として、速水が美嘉『恋空』から引いているフレーズが以下である。

あの幸せだった日々は嘘じゃない、そう信じていたから。
でも、もう本当にダメなんだね。
もう本当に本当に二人はダメになっちゃったんだね。美嘉『恋空』より

人気のケータイ小説は書籍化もされたが、基本的には「エブリスタ」や「魔法のiらんど」といったWebサイトに投稿されていた。改行の多さや口語に近い素朴な言い回しは、ガラケーで打ち、ガラケーで読まれることを想定された文章であるがゆえとも言えるだろう。

「セカイ系」とは、単に作品の性質を指す言葉というだけでなく、インターネット上の考察や批評家による言説も巻き込んだ、一種の「文芸運動」(前島賢『セカイ系とは何か』文庫版の紹介文より)でもあった。

これを踏まえるならば、「小さな関係性と抽象的な大問題の直結」や、あるいは新海誠作品との類似を確認したケータイ小説の「固有名詞や情景描写の欠如」といった特徴も、したがって作家の個性の発露ではなく、当時の情報環境に潜在していた性質が作品を介して出力されたものだと考えられるだろう。

当時どのような情報環境とともに「セカイ系」的な作品が受容されていたのかを見ていくことは、さまざまな問題点を抱えた2020年代現在の情報環境に対する、オルタナティブな視点を提示することにもつながるはずである。

以上の前提をもって、具体的に浜崎あゆみの作品がどのようなものだったのかを見ていこう。

場所性を欠いた「孤独」の表現

はじめに本稿において「浜崎あゆみの作品」と言う際の範囲を確定させておきたいのだが、デビュー年の1998年から2002年までの期間としたい。

2002年は『ほしのこえ』が公開された年でもあり、また2005年から投稿サイト上で発表され、回想形式で書かれた「実話をもとにしたフィクション」である『恋空』の作中年代にも重なっている。またこの年には『I am…』『RAINBOW』と2枚のフルアルバムをリリースしており、次作である『MY STORY』のリリースまでには丸2年を要している。本稿の最後に詳述するが、この間に浜崎あゆみのアーティストとしての姿勢に大きな変化が見られるということも念頭に置いている。

浜崎あゆみ / Free & Easy

さて、浜崎あゆみの浜崎あゆみたる所以は、何よりもまず歌詞である。

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