「何もかも犠牲にしてもいい。そんぐらいハマったんですよラップに」
2019.08.31
2人の記憶によると、当時は2012年頃。Jin Doggは22歳。REAL-Tは17歳のことだ。
《こちら大阪 生野区 朝鮮人部落》という絶唱で始まる『街風』で歌われている通り、2人はそれぞれ、日本で有数のコリアタウンとして知られる大阪市生野区で生まれた。
母子家庭だったJin Doggは、「生野区にいては教育に良くない」と考えた母親の意向で幼少期から大阪を転々とし、10歳からは韓国に家族で移り住み、その後半年ほど単身オーストラリアで暮らしている。
韓国語、英語、日本語というトリリンガルのリリックは、Jin Doggのそうした出自に由来している。
そして高校2年の終わりに、再び戻ってきたのが生野区だった。
今度こそ生野区に根を下ろしたJin Doggは、その後、人伝てにREAL-Tと出会うことになる。
「出会いは寒い(さぶい)すね、間違いなく」(REAL-T)
「なんや年下の悪ガキくらいに思ってましたね」(Jin Dogg)
音楽をきっかけにした関係ではなかった。彼らの言葉を使うなら「地元の不良としての付き合い」。
「音楽はやっとったけど、そこまでラッパーになるとかではなかったんで。ちょうど、飛んどった時期だったんで」(Jin Dogg)
2012年、Jin Doggは自身初のEP『Welcome to Bang Bang I.K.N.』をリリースする。その名の通り、自身のルーツである生野区を打ち出した楽曲が印象的だった。
その後、パッタリと活動が途絶えていた空白期間が存在する。
「不祥事を起こしまくって、自粛みたいな形でいなくなった時期ですね……(苦笑)」(Jin Dogg)
2人はその頃に出会っている。しかしREAL-Tは、5つ上のJin Doggのことを、“ただの地元の悪い先輩”とは思っていなかった。
「元々レゲエとかヒップホップとか、音楽は好きやったんで。生野で年が近くて音楽やってる人は珍しかったから、凄いなって」
その背中を追いかけてきた、わけではない。けれど、生野区で音楽を続けてきたJin Doggの存在は、かたや不良として飯を食っていたREAL-Tが音楽を始めるに当たって少なからず影響を与えたという。
「前に立ってやってくれてる感じはあった」(REAL-T)
「僕も戦力として、みたいな。一緒に盛り上げていきたいって気持ちはあるっす」(REAL-T)
「そうやな」と、Jin Doggは隣で深く頷いている。
REAL-Tが音楽を始めた頃、Jin Doggは徐々に名前を知られるようになってきていた
実は、2人が「ラッパーになろう」と決めた直接的なきっかけは、奇しくも同じ人物だった。
韓国でゲームや年の離れた姉の影響でヒップホップに出会ったJin Doggは、韓国のアメリカンスクール時代にラップを始める。
16歳で日本に帰国してからも、レゲエ色の強かった生野区でラップに誘ってくれた人物、それが生野区出身のラッパー・BKことBYUNGSUNG KIMだ。
Jin DoggとBK、2人は現在、ともにヒップホップ集団・Hibrid Entertainmentのメンバーだ
「アイツそういうの好きなんですよ。若い子見つけてきて」(Jin Dogg)
「それで(ラップを)やらす。Taka(WILYWNKA)もそう」(REAL-T)
活きの良いヤツをつかまえて、とりあえずやらせてくれる。地元に一人でもいると盛り上がる、良き兄貴分。
以前からリリックを書き続けていたREAL-Tも、BKに連れられて一度スタジオでレコーディングして曲をつくってから、本格的に音楽にハマっていった。
暴力に明け暮れた日々も、音楽とは「ずっと隣り合わせだった」。
「生野は、音楽聴くやつらが多い街なんですよね。特にジャパレゲがすごい流行ってた時期があって。(レゲエDJの)CHEHONさんも生野やから」(Jin Dogg)
「中学の時はみんなジャパレゲ通ってた」とREAL-Tが振り返ると、「僕も一瞬だけやりました(笑)。音源にもなってない、ほんとに一瞬だけ」とJin Doggも思い出して笑う。
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