きっかけは「祖母の介護」日本のVTuberが中国で築いたシンデレラストーリー
2021.12.26
地方創生でなくは地方を衰退させる、東京と地方の価値観の違い。
地方でe-Sportsイベントを開催する2人が見据える、地方とポップカルチャーの可能性とは。
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e-Sportsが日本でも話題となって何年か経つ。e-Sports関連の団体が立ち上がり、プロ選手が様々な活動を広げ、多くのイベントが行われてきた。
そうしたe-Sportsを巡る物事の中で、特に地方で活発にイベントを行う人物がいる。岡山県でSETOUCHI ENLIFEの代表を務める小笠原修さんと、富山県で活動するZORGE代表の堺谷陽平さんだ。
小笠原さんは、牡蠣漁師のかたわら牡蠣を賞品に開催した大会が海外で注目を集め、バトルMCとしてULTIMATE MC BATTLE予選に参加したこともあることから「ニートtokyo」にも出演するなど、国やジャンルの壁を跨いで活躍している。
一方の堺谷さんは富山でゲームイベント「ToyamaGamersDay」を主催。会場に老舗酒蔵、賞品にズワイガニなど、地元の産業と結びついたイベントを展開している。
二人はどちらも30代前半。同世代であり、自分たちの地方を生かしたe-Sportsイベントを開催し続けているキープレイヤーだ。
いかに地方でe-Sportsを始めようと思い、イベントを行ってきたか、東京と地方の関係などを二人に語ってもらった。二人の活動の中から、地方でポップカルチャーを育むこと、ポップカルチャーが地方にできることの可能性を探る。
──お二人は幼少期からゲームが身近な生活を送ってきたんでしょうか?
堺谷 僕はもともと10年くらい前からプレイヤーとして活動していました。当時は、今のようにe-Sportsって言葉自体も全然メジャーでもなく、試合が配信されて、そこに載るだけでも嬉しかったんです。
オフィシャルの大会も、たとえば「東京ゲームショウ」に合わせて見に行って、それだけでもすごく嬉しいとか。あとはネットカフェを使ったイベントで僕らは満足していて、大会で溢れている今のe-Sportsとはまったく違った風景でした。
オフィシャル大会といっても賞金に電子マネーが数万円もらえるだけ。でも、すごく自分のモチベーションになっていました。だけど年一回しか大会がない状況の中で、プレイヤーみんながモチベーションを保つのはけっこう難しかったんじゃないかな。
小笠原 僕もゲームはもともと子供のころから好きで。だけど僕の家は代々漁師の家系で、爺さんや婆さん、親父とか従妹、弟とかもみんな漁師なんです。週末でも家にいたらオカンもオトンもどっちも仕事なので邪魔になるんですよ。
小学校の高学年くらいまで、母方の親戚の家をたらい回しされてました。そのかわり、親戚は漫画とかゲームのメジャーなものは全部押さえていて、よくゲームをやってました。
で、小学校高学年くらいから休みの日は漁に引っ張りだされるんですよ。冬休みとかもう毎日。中学高校ぐらいのときは案の定グレて、けっこう反発してました。
とはいえ高校を出てすぐ結婚して、家業を継いだんです。高校から25歳くらいまでほぼゲームはやってませんでした。
堺谷 僕は高校生ぐらいからオンラインの大会を開催するようになりました。一番最初は『WarRock』、そのあとに『コールオブデューティ』(以下「CoD」)の大会。
「CoD」のときに、CoDJAPANというPC版のコミュニティをつくって、定期的な大会を開催していました。その時に初めて協賛企業を付けたんです。
──おお、スポンサーを付けて大会とは早い段階で本格的な開催だったんですね。本格的に地元でイベントをやるのはそこからですか。
堺谷 いえ、地元の富山で特にやりたいこともない中で、とりあえず県外の学校に行きたいなと、大阪や東京に出ていったんです。そんな当時、ちょっとしたきっかけで東南アジアをバックパックする機会が半年間ありました。
そこで僕は「表面上で理解していた都会というのは、どこにでもあるんだな」とショックを受けたんです。人がたくさんいて、車が走っていて、ビルが建っている。それってどこでも同じだなと。そこで都会に対する憧れは一気に冷めてしまいました。
一方、バックパッカーとしてローカルな所を周ると、地域ごとの色が違って圧倒的に面白いと感じたんです。日本にもローカルな面白い場所っていっぱいあるんだろうなーと。
──バックパッカーをやって、逆に地元への可能性を見つけたんですね。そうして富山に戻られて、どのようにe-Sportsに関わられたのでしょうか。
堺谷 もともと富山に帰ったときはe-Sportsとか考えていなくて、とりあえず地元に貢献したいと思っていたんです。週4、5で放置竹林を整備するボランティア団体の活動を2年やっていました。
メンバーはほとんど70代。もともと会社の役員など、余裕のある人たちが多い中で、僕はお金ももらわずに活動していたので、おじいちゃんたちにすごく心配されたんですよ。
「あいつはどうして金もないのにボランティアしてるんだ? このままだと自分たちが若い労働力をただで使っていると思われていてやばいぞ」と。
──そういう心配もあるんですね。
堺谷 そんな中に高岡市の雑居ビルを持っている方がいたんです。「そこを借りてなんかやってみたら?」と言われました。
そこにゲーマーが集まれるコンセプトのお店・JOYNをつくって、モバイルで出来るタイトルでもある『シャドウバース』や『ハースストーン』の定期大会をやり始め、今に至ります。
──堺谷さんはバックパッカーとしての経験が地元に貢献しようと考えるきっかけになったということですが、小笠原さんはいかがでしょう?
小笠原 僕は堺谷さんとは違って、25歳までは地元で家業の漁師をして生活してきました。
でもその頃に地元の過疎化、爺さんが家業を引退と、いろいろ重なったんです。僕が小学生の頃、同級生は80人いたんです。うちの子供が小1になったとき、同級生は20人くらい。4分の1まで減っていました。
漁業組合とか、持っている海域の関係とか、いろんな観点から「牡蠣漁師じゃ死ぬまでは食っていけんな……」と本当に悩んだのがその頃です。それで(情報を集めるために)初めてはじめて家にインターネットを繋いだんですよ。
情報収集のかたわら、オンラインゲームもやり始めたんです。根本がお祭り男なんで、すぐにゲーム実況を始めました。家業が牡蠣漁師系ゲーマーの「マラさん」という名前で。ありがたいことにそこそこ視聴者もついて。
そこから『Dota 2』っていうゲームの大会「まらカップ」を開催しました。1回目の大会で「参加賞で牡蠣を配るわー」ってうちの牡蠣を商品にした大会をやったんです。そしたら思いのほか反響があって。
──軽い気持ちで企画した大会だったんですね。
小笠原 そうなんすよ。めちゃめちゃ軽い気持ちで。
『Dota 2』って僕は好きなんですけどマジで日本人プレイヤーがいないんですよ。100人いるかいないかだと思っていたんです。
だから「大会やるぞー」って企画したときも、『Dota 2』は5人1チームでやるゲームなので、6チーム30人くらい来ればいいかなと思っていたんですけど、32チームも来たんです。
──予想の5倍強! 凄まじい人数ですね。ゲーム大会で牡蠣がもらえるなんて珍しいですからね。
小笠原 結局160人くらいに牡蠣を配りました。
『Dota 2』が海外産のタイトルだったのもあって、先にReddit、海外でバズったんですよ。
──海外の掲示板の最大手から(笑)!
小笠原 「そこから日本でも反響があって「これは田舎の一次産業に活かせるんじゃないかな」と思ったんです。25歳までただの漁師だったバカなおっさんにもなにかやれる可能性があるし、なにより大会でみんな喜んでくれたんですね。それが嬉しかったんです。
一次産業とゲーム、どちらもWin-Winになってくれるんであれば、僕がイベントをやるのに意味はあるのかな、と思います。
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