さいとうなおきインタビュー NFTが切り拓く、凡人も絵で生きれる未来
2021.12.03
日本のゲーム史/音楽史にとって重要な「beatmania」。そして、大ヒットコミュニケーションアプリ「斉藤さん」。2つの生みの親は、同じ人物である。
※本稿は、「KAI-YOU.net」にて2016年に配信された記事を再構成したもの
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1997年、巨大なスピーカーに、サンプラーとターンテーブルが付いた見馴れない筐体がゲームセンターに登場した。「beatmania」(ビートマニア・以下「BEMANI」)の名で知られるこのアーケードゲーム機はその後、音楽ゲームという新しいジャンルを切り開いた伝説として君臨し続ける。
2011年、不特定多数のユーザーをランダムでつなぐ不思議な電話アプリ「斉藤さん」がApp Storeに登場した。
「出会い系」対策として健全化システムが稼働するまでApp Storeで一旦配信中断となるなど、紆余曲折を経て、現在までに2,000万ユーザーに達する定番アプリとなっている。
実は、この2つの大ヒットコンテンツの生みの親は、同じ人物である。それが、ユードー株式会社代表取締役の南雲玲生さんだ。
しかも南雲さんは、なんと「BEMANI」では有名な「20,November」をはじめとした数々の名曲を生み出してきたクリエイターとしての顔も持っている。
一見、ユーザーもコンセプトもまったく異なる音楽ゲームと電話アプリ。この2つを結びつける根幹とは何か?
1990年代から第一線を走り続ける南雲玲生さんのクリエイションの秘密や、その根底にある思想に迫ったロングインタビュー。
目次
- クラブカルチャーとの出会いから始まった音ゲーのクリエイション
- クラブカルチャーをゲームセンターに持っていった「BEMANI」
- ユーザーに喜んでもらえるモノをつくりたい
- アマチュア無線から発想を得た「斉藤さん」
- 匿名文化に見るポストモダン
- 人々を豊かにするのは最適解ではない
- ユーザーが求める“無駄”
- 失敗は買ってでもしろ!
──南雲さんがクリエイターとして歩み始めたのはいつ頃からだったのでしょうか。
南雲玲生(以下「南雲」) 小学生の頃から、パソコンやシンセサイザー、アマチュア無線などを両親から買い与えてもらっていたので、プログラムとか音楽も当たり前のようにやっていました。
だから、クリエイターとしての自覚はなかったけど、プログラム言語のBASICなどでクリエイションすることは当たり前でしたね。ゲームセンターに行くと1回100円だけど、自分でつくればタダで好きなゲームがやれますし。
──そこから「BEMANI」につながるような音楽に出会っていったのでしょうか?
南雲 僕が高校1年生だった頃にハウスと出会ったのがきっかけでした。ダンスをやっている知人のために、サンプラーを使ってターンテーブルとかで音を組み合わせて曲をつくっていて。
南雲 洋楽が大好きで、当時はテイ・トウワさんのDeee-Lite(ディー・ライト)とか、808 Stateとかに代表されるハウスブームが起きたんです。その頃に、打ち込みでグランド・ビートやヒップホップなんかもつくり始めました。
──高校生の時にそうした新しいジャンルの曲を聞いていたんですね。その頃の経験が、後のクリエイションにも影響があった?
南雲 たくさんありましたね。あの頃は、日本だとMONDO GROSSO(モンド・グロッソ)が渋谷のクラブで活動していましたし、僕の地元のテレビ局で洋楽番組をよくやっていたので、ワールドミュージックとかにも興味を持ちました。
特に好きだったのがSoul II Soul(ソウル・トゥ・ソウル)と、Incognito(インコグニート)。このあたりが、「BEMANI」をつくる上でもすごく参考になりました。
──実際に、お仕事として音楽をつくられるようになったのはいつごろだったのでしょうか。
南雲 高校生の時に、AppleがラジオCMを募集していたのに応募して通ったのが最初ですね。
──音楽好きな南雲さんが、ゲームの世界に入ったのはどういう経緯だったんですか?
南雲 高校は進学校だったんですが、紆余曲折あって大学には行けなかったんです。それから2年間ぐらい、いろんな会社に入ったんですが適合できなかった。中二病なんですね(笑)。
そんな時、たまたまゲームメーカーのコナミがサウンドクリエイターを募集していたのを知って、音楽をつくって安定した月給とボーナスもらえたらいいなと思って、受けてみたら合格してしまった。それが21才の時でした。
──その時につくった曲はやはりハウスだったのでしょうか。
南雲 いえ、UFOキャッチャーで流れるような音楽でした。最初はサウンドプログラムをやりながら音楽みたいなのをつくっていたんですが、そのうち、僕の上司が「プログラムはダメだけど、音楽はいいね」と評価してくれるようになりました。
──その環境が、音ゲーとしての「BEMANI」を生み出すことになったんですね。
南雲 僕はもともとゲームセンターの景品や、UFOキャッチャーのようなエレメカをつくる部署だったので、音ゲーのような筐体をつくるようなことは考えてなかったんです。
そこで音ゲーをつくることになった時に、クラブカルチャーの影響を受けていた僕は、強引にサウンド担当側からターンテーブルやサンプラーを組み込むことを提案してみたら、ああいうDJのような筐体につくり上げていただいた。
──クラブカルチャーでの経験が活きてきたということですね。「BEMANI」をつくられた当時、ヒップホップやハウスをゲームセンターで聞きたいというようなニーズは感じられたのでしょうか?
南雲 いえ。でも、当時はバンドブームが終わって、同じフレーズが続くテクノのようなアンダーグラウンドな音楽が表に出る流れがありました。
クラブも90年代半ばになると、普通のおしゃれな女の子が遊びにくるようになったんですね。この感じをゲームセンターにもってきたらどうなるんだろうかと。
──クラブの客層が変わっていっているなという直感があったんですね。
南雲 はい、全部直感でした。でも、結果的にそれとは違う理系的なゲームファンが集まる場所になるとはまったく想定していませんでした。
──当時所属していたコナミでは、「BEMANI」以外にもさまざまな仕事をなされていたと思います。印象に残っていることはありますか?
南雲 今自分が会社を立ち上げたからその苦労がわかるんですけれど、コナミが、僕たちに制作を任せてくれたことですね。
当時メインで制作していたのは20代の若手で、マーケティングとかじゃなくて、各々の直感とかやってみたいという思いでつくっていました。
あの時、僕たちは自分たちの能力を信じられたし会社も信じてくれた。制作を取りまとめてくれるディレクターも30代前半で、その方たちも僕らがクリエイションにすごく専念できる環境をつくってくれていたんです。
だから、新しいゲームをつくるための環境は素晴らしかった。僕はそれまでいろんな会社に入っては挫折をしていたんですが、あそこで活躍ができたのは本当によかったと思います。
──なるほど、そうした環境から「BEMANI」は生み出されたんですね。
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