『進撃の巨人』が描いた運命と自由──エレン、ミカサ、アルミンはどう生きたか
2021.05.27
この記事は『Pokémon LEGENDS アルセウス』(以下『アルセウス』)の根幹となるネタバレを含みます。
ピカチュウに対してのテルのこの発言は、自分が『Pokémon LEGENDS アルセウス』をプレイしている中で、控えめに言って最も笑ったシーンである。
「ネズミが電気を出すのは理屈に合わない」、あまりにもド正論だ。
もちろん現実にもデンキウナギなど筋肉を使って自ら電気を発する生き物は存在するし、人間が筋肉を動かすときにも微弱な電気は発生しているし、思考や心の正体も突き詰めると電気信号に過ぎない。が、ピカチュウのそれは規模が違いすぎる。なんせ10万ボルトである。雷に至ってはボルトに換算すると1億ボルトにも達する。なお、人間は100ボルトの電気を浴び続けるだけで死ぬ。
しかし、面白さの源泉はそこではない。それは「ポケモンの世界でそこにツッコミ入れていいんだ」という、不文律に触れてしまったような気まずさ、一種のメタジョークである。それは以下のように言い換えることができる。『アルセウス』は、私たちが知っているようなポケモン世界が成立する以前のポケモンである、と。
そこには、私たちの知らないポケモンの姿があった。
平気で人を襲うポケモンたちや、逆にポケモンを信仰の対象として崇め奉る人間たち、捕まえて戦わせるという行為自体に異議を唱える団体や、この宇宙の創世神話とあまりにも地続きな世界観……現代のポケモンを知る私たちにとっては正に黎明期、近代化以前のポケモンたちの姿だ。
それを、さらに言い換えてみようと思う。『アルセウス』とは、ポケモンを、世界を問い直す物語である、と。
目次
- ピカチュウは本当に実在しないのか?
- 『アルセウス』に込められた哲学的アプローチの数々
- 「我欲す故に我あり」ヒスイ地方の特異点・ウォロ
- 誰のために、何のために 「私」の暴走の果てに
例えば、冒頭で言及したピカチュウというポケモン。先ほど言った通り、電気を発するネズミなんておかしい。
本当にそうだろうか?
ネズミが電気を発することの、何がおかしいのだろうか?
それを変だと感じるのは、私たちが現実に「電気を発するネズミ」が存在しないであろうことを知っているからだ。『アルセウス』世界の住人たちの前にはそれが存在しており、かつ何のためにそんなことをしているのか分からないからポケモンが怖い。この認識は『アルセウス』という物語全体を通しての通奏低音としても機能しており、だから主人公はポケモンを知るために(恐怖を取り除くために)図鑑完成に勤しむ。
何を当たり前のことを……とお思いかもしれないが、ここでもう一度考えてみてほしい。
電気を発するネズミがいたら、本当におかしいだろうか?
もしそれがおかしいのならば、デンキウナギだっておかしいのではないだろうか? 電気で動く人間だって変ではないのか?
しかしこれには、たいていの人の答えはNOだと思う。なぜなら、おかしいも何も、デンキウナギや人間は現に存在しているからだ。常識・非常識以前の、当たり前の客観的事実。
そんな“当たり前”を疑う行為は”哲学”と呼ばれ、その中でも世界に存在するあらゆる事象を疑う立場を懐疑主義という。
ある懐疑主義者は徹底的に考えた。疑う余地のない、絶対的なものなんて存在するのだろうか。自分の目の前に人やものが存在しても、それは自分がそういうふうに感じているだけで、まやかしかもしれない。そういう自分自身の存在だって証明することはできないし、そんな自分から思考される数学や原理も、間違いを起こしうる。
そして気づいた。こうやって様々なものを疑っている自分、疑う自分が存在しているという事実だけは、絶対に否定できない。例えこれが夢の中であろうと、疑っている自分という存在だけは自明である。
これがフランスの哲学者であるデカルトが自著『方法序説』の中で提唱した「我思う故に我あり(コギト エルゴ スム)」という世界への根本的原理である。
さて、なぜポケモンについての記事でデカルトの哲学を説かれなければならないのかとお思いの方もいらっしゃると思うが、この『アルセウス』という作品は、哲学的なアプローチがやたらと多い。
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