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2023.05.04
リアルかフェイクか、ヒップホップか否か──日本では日夜その議論が起こっている。先日も音楽集団・YouTuberのRepezen Foxxを巡ってSNS上で激論が交わされた。
では、日米において“リアル”とはどのように解釈されてきたのか? 気鋭ライター・フガクラ氏による論考を掲載。
It's like a jungle sometimes
It makes me wonder how I keep from going underこの街はまるでジャングルみたいだ
Grandmaster Flash & The Furious Five「The Message」より(和訳は筆者)
時々、どうして自分は死んでいないのか不思議に思う
1982年、Grandmaster Flash & The Furious Fiveは楽曲「The Message」で荒廃した自身の街を「ジャングル/無法地帯」と表現した。
歌詞の舞台となったのはニューヨークのサウス・ブロンクス地区。1970年代以降、財政悪化が続く同地区では見切りをつけた裕福な白人たちは郊外へと一斉に脱出し、やがて行政からも放置される無法地帯となった。
取り残されたのは貧しい黒人たちだ──大家を失った住居は管理の行き届かない廃屋と化し、雇用を失った者はゴロつきとなって街を徘徊する。まるでついさっき爆撃機が爆弾を落としたように崩壊しきった公営住宅の瓦礫が路上を埋めつくし、度重なる火事で焼け焦げた外壁に寄りかかる子供たちが、あてもなく不安な表情を浮かべている。
犯罪と不安が渦巻く都市にあって、絶望的な彼らの生活の希望として、住民たちは音を流し踊り騒いだ。ディスコにいく金のない子供たちが、自分たちだけで踊るためにつくり上げたパーティミュージック。最初は小さな火種であったはずの素朴な遊びは、やがて新たなアートフォームを形成していく。
そして1973年、ブロンクス地区「1520 Sedgwick Avenue」でDJクール・ハークが主催する世界初のヒップホップパーティが開催された。
骨太なダンスミュージックと威勢の良いMCはみるみると地区から地区へ、そして街全体へ伝播し、各地で独自の進化を遂げながら燃え盛り始める。DJやMCの増加に伴い豊かなラップスキルが磨かれるようになると、ブロンクスのラッパーは貧困や街の危機、蔓延る不正といった彼らを渦巻く「リアル=現実そのもの」を歌う手段へとラップミュージックを転化させていった。
ラップミュージックの火は止まらない。市場は爆発的に拡大を続け、アメリカ中を巻き込む一大ブームとなり、さらに世界中の若者たちがそのエネルギーに魅了され、世界各地でオリジナルなヒップホップが産声をあげた。
それから50年が経過した今、ヒップホップは世界的なトレンドとなり、あらゆる時代、あらゆる国における様々な“リアル”を描写する手段として機能している。
それゆえに、ヒップホップリスナーの間では、リアルかフェイクかが、つねに重要視されてきた。
しかし、一方でヒップホップの母国であるアメリカに対して、輸入先の国はいわゆるブロンクスのような移民系密集居住地区、つまり「ゲットー」を有する国ばかりではなかった。イデオロギー的な後ろ盾がないままにサウンドだけを手に入れた海外のヒップホップは、“宙吊りのリアル”を抱えたまま、それをどう超克するべきかという長い挑戦の歴史を抱えている。
例えばこの3月には、YouTubeをメインに活動する音楽グループ・Repezen Foxxに対し、日本のラッパーやHIP HOPリスナーを中心に強烈なバッシングが起きたことは記憶に新しい。
タイで開かれる世界最大級のHIP HOPフェスティバル「ROLLING LOUD THAILAND」へRepezen Foxxの出演が決定し、エンターテインメント性が強いスタイルの彼らに「あんなものはHIP HOPではない」とSNSを中心に否定的な声が多く寄せられ、炎上に近い事態に発展することとなったのだ。
後にRepezen Foxxは一連の騒動へのアンサーソングとも言うべき、全編ラップで構成された「Hate your life」を発表。曲冒頭で「まずリアルなヤツは、見てりゃわかる わかる奴にはわかる、つか、わからせる」と語り、国内のHIP HOPシーンにおいて「リアル/フェイク対立問題」がいまだなお健在であると証明する形となった。
では、日本のヒップホップがその歴史の中でリアル、そして対になるフェイクという概念をどう捉えていたのか、そしてリアルは現在どう解釈されたのか──アメリカのヒップホップにおけるムーヴメントと照らし合わせながら考えていくことにしよう。
目次
- 好景気に湧く日本でのヒップホップの起こり──
- バーチャルな嘘と踊るの“メタなリアル”から“本物らしさ”へ
- SDPの抱えた“照れ”──本物らしさの脱臼
- ECDが看破した、人種的ルーツとそれを語り得ない不可能性
- ヒップホップ東西抗争が生んだジレンマ
- バブル崩壊が奇しくも生んだ日本の“ゲットー”
- “替えの効かない自分の人生のオリジナリティ”の誕生
- 未来への不安が生んだ薬物蔓延の“危機”と、トラップの台頭
- KOHHにMall Boyz、ピーナッツくん、Watson──リアルのその先
- 自分自身を自らの言葉で定義しながら、加速する消費社会と向き合っていくこと。
日本では1980年代前半、スネークマンショーのメンバーである小林克也が手がけた『咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー』、『うわさのカム・トゥ・ハワイ』が最初期のラップソングだとされ、続いて山田邦子の「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」や吉幾三「俺ら東京さ行ぐだ」などのラップスタイルを取り入れた楽曲が発売される。
また、ライムスター(RHYMESTER)やキングギドラ(KING GIDDRA)と行ったハードコアラップの先駆けとなり、日本最大級のヒップホップイベントであるB-BOY PARKの創始者でもあるCRAZY-Aが活動をはじめたのもこの頃だ。
さらに数年後には『ホットドッグ・プレス』などの編集者であったいとうせいこうやミュージシャンや音楽ライターとして活躍していた近田春夫らが登場し、日本のヒップホップは徐々に熱を帯びていく。
当時の日本はアメリカの経済政策、レーガノミックスによって大幅な経常黒字を出す好景気に乗っていた。1985年にはプラザ合意が行われ、合意前は1ドル=242円だったものが年末には200円を割り、さらに翌年夏には151円にまで上昇。戦後最大の好景気経済という栄光の時期に突入していた。
ここにおいてサウス・ブロンクスの絶望的な貧困とは完全に切断され、ゲットーの「現実」を共有しないまま、真逆ともいうべき好景気とインテリ層のプレイヤーたちを中心として日本のヒップホップは始動したという側面がある。
この自己矛盾を抱えたまま1986年には、近田春夫がPresident BPM名義で『MASS COMMUNICATION BREAKDOWN』を、また同年にはいとうせいこう & TINNIE PUNXが『建設的』を発表する。
『建設的』に収録された「東京ブロンクス」において、いとうは「崩れたビルからひしゃげた鉄骨こわれはてたブティック 何日寝たのかわからない 壁にスプレー 誰かが残したNo future is my future」と、まさにGrandmaster Flash & The Furious Five「The Message」で描写されたブロンクスの惨状を想起させるようなイメージを歌っている。
しかしこの歌詞の風景は全くの「フェイク=嘘」を語っており、同年の東京は実際にはアーク森ビルや新宿グリーンタワー、ヒルトン東京などの高層ビルが続々とオープンし、毎年数十万単位の都市転居者を迎える輝かしい富と発展の象徴であった。
いとうは同曲で「寝過ごしたと思ってドアを開けたら 東京はなかった」と歌うが、ここには“なくなった東京という存在しない風景を求める”奇妙な自家撞着が発生している。
終末世界を思い描いたのはラッパーだけではなく、当時の世間も同様だった。1973年に発行された五島勉『ノストラダムスの大予言』は著書内で世界滅亡の日とされた1999年に向けて度々注目を浴び、250万部を超えて日本を代表するベストセラーの一冊となっている。
こうした世紀末的な想像力は、いずれも80年代初頭に始まった大友克洋の『AKIRA』や宮崎駿『風の谷のナウシカ』、武論尊・原哲夫による『北斗の拳』をはじめ、サブカルチャーの領域においても、ある種ネタ化された形で消費される状況が続いていく。
虚構のバブルに湧く日本の経済好調と、着々と近づく暗澹たる世界崩壊のイメージ。
「MASS COMMUNICATION BREAKDOWN」で近田春夫は「最低のT.Vショウ/最低のT.Vショウ/ホントーのタブーに挑戦してみてよ そしたらボクも応援するから」とマスコミの嘘を暴き、1988年にいとうが発表した小説『ノーライフキング』は、「ライフキング」なるゲームソフトが子供達の間で流行する世界でバーチャルなリアルを描き出す。
ソトニデテ
一文字一文字が一定のリズムで空白を埋めてゆく。
ミテクダサイ
S-8は、T-8のパーツに行動を要求していた。
そして質問。
リアル
デスカ?いとうせいこう『ノーライフキング』
作中でゲームソフトから発せられる「リアル/デスカ?」という質問は、資本主義の中で硬直した当時の空虚感を見事に表している。
また1989年発表のいとうせいこうの曲で、後にRHYMESTERがカバーした「噂だけの世紀末」では「噂はすぐにひろがりだした どんな噂だってもうどうだってよかった 世界破滅のイメージを誰もが欲しがった」と終末論を弄びつつもどこかで渇望する世相を冷静に描いている。
それらはみなバブルの中で“リアリティ”を失った80年代の日本の姿を戯画化するものでもあり、実体経済に伴わない地価上昇を代表とするバブル経済というバーチャルな嘘と踊る、ゲットーを持たない日本の“メタなリアルを楽しむ”こじれた肌感覚を語っている。
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