R-指定は、孤独な王者である──理解も批判も同情も拒絶する「キングオブディス」の正体
2024.10.28
『呪術廻戦』という作品の顔であり続けた五条悟は、1989年12月生まれと設定されている。私事だが、1988年12月生まれの筆者はちょうど彼と1歳違いである。同世代と言っても差し支えないだろう。
「五条悟世代」は、「昭和」と「平成」の端境期に生まれた世代である。筆者の学年は特に象徴的で、和暦にして3種類の人間が混在する。1988年から1989年への変わり目、年が明けてわずか一週間で昭和天皇が崩御したため、通常の4月-12月生まれ(昭和63年生まれ)と1月-3月生まれ(平成元年生まれ)とは別に、1989年1月1日-1月7日というごく短い期間である「昭和64年」生まれの人間が存在するのだ。
つまり、12月生まれの筆者はギリギリ「昭和生まれ」なのだが、それ以前に60余年の歴史を持つ「昭和」を自分世代のものだとは到底思えないし、かといってその後30年も続いた「平成」生まれの代表面をするのも気が引ける。元号で世代論が語られる際には、どうにも座りの悪さを覚えてしまう。
五条悟という人間は、その絶大な実力と影響力をもって、呪術界に根付く悪しき伝統の破壊者として振る舞ったところがあった。しかし、それは呪術師の不遇に違和感を覚え「非術師(一般人)を根絶やしにする」目標を掲げた親友・夏油傑との決別を経て、そのように振る舞わざるを得なかったとも言える。
筆者は「五条悟世代」のひとりとして、『呪術廻戦』という作品を、五条とその同世代が抱える、ひとつの「呪い」についての物語だったのではないかと感じる。すなわち、元号に象徴されるような「伝統的なもの」に自らを帰属させられないとき、自らの寄る辺となるものは何か、という問いが流れていると感じるのである。
そして、この問いは本稿を通じて見ていくように、現代社会全体に関わるものでもあるだろう。
目次
- 小泉政権、リーマンショック後の2000年代という時代と「自己責任という呪い」
- 「五条悟世代」が現実で直面する「35歳問題」
- 「呪術」とは「漫画を描く」ことのメタファーである
- 呪術師は「呪い」を世界観へと昇華する
- 『呪術廻戦』は「社会を描いていない」のか?──〈セカイ系〉を補助線に
- 「社会」と「ソーシャル」の間隙を突く
- 私たちはみな、「呪い」とともに生きていく
「五条悟世代」が世代感覚を預けられるのは、「昭和」や「平成」といった元号の代わりに、自らの生きてきた経済状況なのではないかと筆者は思う。とはいえ、それは豊かな時代を過ごしてきたということではない。
生まれてこの方「失われた〇十年」というフレーズばかりを聞かされてきたし、二十歳前後でリーマンショック(2008年)を経験した世代だ。当然、史上何度目かの就職氷河期にぶち当たった。
そしてやっと内定をとったと思ったら、東日本大震災が発生。筆者の場合、大学の卒業年度がちょうど2011年だったので、自粛のため卒業式は開催されなかった。「学生」から「社会人」への切り替えの機会も与えられず、どこか宙ぶらりんな気分のまま、混乱を極める社会に放り出されたのである。
まさに天命を呪いたくなりそうなものだが、不思議と「自己責任」の4文字が脳裏につきまとって離れなかった。これこそが「五条悟世代」の抱える「呪い」に他ならない。
『呪術廻戦』は『週刊少年ジャンプ』の看板を張った押しも押されぬ「少年漫画」なわけだが、まさしく「少年」だったティーンエイジャー期を、私たちは小泉純一郎政権下で過ごした(2001年-2006年)。「自民党をぶっ壊す!」のスローガンとともに、まさに伝統の破壊者として彼は現れたのだった。
今でこそ米国流の新自由主義(ネオリベラリズム)政策を推し進め、実力至上主義や自己責任論を社会に蔓延させたとして批判の槍玉に挙げられることも多い彼だが、当時は「改革なくして成長なし」「痛みに耐えてよく頑張った、感動した!」といったメディア映えするフレーズの数々が、それこそ漫画のキャラクターのようで痛快に映ったものだ。
サポートがむしろ足手まといになるとされるほど、他者と隔絶した圧倒的な戦闘力を持つ五条は、まさしく実力至上主義、ひいてはその土台となるネオリベラリズムという思想の象徴のような存在だ。
強者は弱者のためにその力を使うべきだという理想──これもまた「自己責任」のひとつの表れと言える──を掲げ、その限界に直面したことで悪に身を堕とした夏油との死別を経て、「強く聡い仲間を育てる」ことに人生の意義を見出し、実際に後続世代である主人公の虎杖悠仁たちに後を託して本人は逝くが、彼自身は最後まで同じく「最強」の存在である宿儺との戦いを愉しみ、全力を出せたことに充足感を覚えて死んでいった。
ラスボスとなった宿儺と主人公・虎杖との最終局面は、「現代最強」の五条をも超える「史上最強」、もうひとりのネオリベラリズムの象徴たる宿儺と、「人は生きているだけで価値がある」と説く虎杖との思想対決だったわけで、これは新世代の価値観による、「自己責任という呪い」の「解呪」※1であった。
※1 もっとも、渋谷事変での(虎杖の身体を借りた)宿儺による「竈(カミノ)」の発動が多くの民間人を犠牲にしたことから、虎杖自身も「自己責任という呪い」に終盤まで囚われていたのであって、そこから導き出されたのが例の「自分は錆び付くまで呪いを殺し続ける歯車にすぎない」というスタンスである。虎杖の発した「人は生きているだけで価値がある」というこのテーゼは最終局面で突然発せられたような趣もあるのだが、見逃してはならないのは、このテーゼが提示された宿儺との対話が、虎杖が展開した彼の領域内で行われたということだ。後述するように領域とは術者の人生を反映したひとつの世界観であり、それを展開=客体化したことで「(何も「歯車」ぶらなくても)答えはすでに出ていた」ことに瞬間的に気づけたのだと解釈できる。ともあれ、同じく旧世代の呪いにかかった虎杖が、自らそれを克服してこのテーゼに到達したという点が重要である
しかし「五条悟世代」の当事者でありながら、「最強」たる全能感とは無縁の人生を送ってきた人間としては、「自己責任という呪い」を内面化しながら、五条のようには生きられなかった(あるいは、死にきれなかった)者たちにどうしても関心が向く。
それが、日車寛見と髙羽史彦という2人の人物だ。
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