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  • 2024.12.07

「弱者男性」としてのバトーは、いかにしてその生をまっとうするのか──押井守『イノセンス』再考

「弱者男性」としてのバトーは、いかにしてその生をまっとうするのか──押井守『イノセンス』再考

アニメは人並み程度には見ているが、声優への関心は希薄だ。というよりも、そもそも誰でも知っているような有名声優でも名前と声とが結びつかない、そうしたセンスが欠落しているのだが、不思議と田中敦子さんの声はしっかり聞き分けることができた。

それはひとえに『攻殻機動隊』シリーズの、草薙素子少佐の存在によるものだ。だから田中敦子さんの訃報を知ったときは、まるで『イノセンス』での、バトーのような気持ちになってしまった。

目次

  1. 繋がりへの期待を放棄した『イノセンス』
  2. 時代に遅れ、時代を見送った押井守の『イノセンス』再考
  3. 救いがなく、惨めで、光の当たらない人生をおくる「弱者男性」としてのバトー
  4. 押井守と、ミソジニー的こじらせの問題
  5. 「主体を救い出す」ハードボイルドという試み
  6. ハードボイルドの美学とは? 反発生んだアルトマン版『ロング・グッドバイ』
  7. 我々はいかにして、孤独な生をまっとうすればいいのか
  8. 草薙素子の「守護天使」というイメージの反転
  9. 小さきものに、完全さを発見する
  10. 我々はいかにして、孤独な生をまっとうすればいいのか

繋がりへの期待を放棄した『イノセンス』

『イノセンス』が公開されたのは、2004年の春だった。つまり今年2024年は、公開20周年にあたることになる。しかしそれで盛り上がったという話はとくに聞かない。

攻殻機動隊と監督・押井守という組み合わせならば、ふつう連想するのは『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995)だろう。主人公がネットと融合するという結末のインパクト、「どこへ行こうかしらね、ネットは広大だわ」というセリフは、同年のWindows 95のリリースなどもあいまって、これからはじまるネット時代への期待を掻き立てるもので、時代を象徴する作品となった。

『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』 特報

それに比べ続編の『イノセンス』は、アニメーションとしてのクオリティはともかく、物語や主題の面では、好意的に受け取られることは少なかった。

前作『GHOST IN THE SHELL』から3年。少女型の愛玩用ガイノイドが所有者を殺害する事件が多発し、テロの可能性があるとして、バトーたち公安9課が事件を追いかけていく。監督の押井は、バトーの捜査をハードボイルドタッチで描くが、いっぽうで押井が愛してやまないバセットハウンドをバトーの愛犬として設定していて、人間よりも犬や人形に情を寄せているようにうかがえる。

押井守監督作品 映画『イノセンス』

たとえば批評家の東浩紀は、かつて「自己相対化の視線、成熟という強迫観念をすべて擲ち、ただひたすらに内面のイメージをスクリーンに定着することだけを目指しているように見え」、「ハードボイルドの美学のなかに閉じこめられている」( 『文学環境論集 東浩紀コレクションL』)と指摘した。また、押井の弟子筋にあたり、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX(SAC)』(2002-2003)を監督した神山健治も失望を隠そうとせず、「徐々に年を取っていって、フィジカルの部分を喪失していくと、逆にそこを埋め合わせたくなるんじゃないかとか想像してしまう」と述べている(『ユリイカ 2005年10月号 特集=攻殻機動隊』)。

しかし少し立ち止まってみたい。いまやネットは国家や大企業、資本家に都合のいいように誘導され、SNSは陰謀論や罵詈雑言が飛び交う場と化してしまい、イーロンがTwitter(現X)を買収するだいぶ前から、これらにネガティブなイメージを持つ人は少なくなかったはずだ。

神山も、『SAC』では『GHOST IN THE SHELL』と同じようにネットのポジティブな可能性を謳っていたが、その後のネトウヨの台頭やあいつぐ炎上騒ぎなどによって考えをあらため、批評家の藤田直哉が「ネット上の匿名、つまり「名も無き者たち」のリアクションに、神山は傷つき、うんざりしており」、それよりあとの作品には「『SAC』で描いたような、不正に立ち上がる個の崇高さ、解放の神学的な「ゴースト」の輝きはない」と指摘するように、作中でのアプローチも変化していった(『攻殻機動隊論』)。『GHOST IN THE SHELL』や『SAC』の評価が揺らぐわけではないが、当時は画期的と思われたアクチュアリティは失われたと見ていい。

こういった状況に則った上で東の批判を反転させるならば、『イノセンス』はネットでつながっていくことの期待をすでに放棄していて、むしろ積極的に「閉じていく」ことを、2004年の時点で説いていたと考えられる。

Twitterが開始されたのは『イノセンス』から2年後の2006年、「アラブの春」でSNSが大きな役割を果たしたのは2010年、東日本大震災でインフラとしてのTwitterが評価されたのは2011年。民主的なネットワークへの期待感の高まりを横目にしながら、はやくも押井はネットに見切りをつけ、次にどうしていくかを模索していた。そう考えることができるのではないか。

時代に遅れ、時代を見送った押井守の『イノセンス』再考

というと、このような反応が返ってくるだろう。押井は『イノセンス』の時点で53歳。宮﨑駿が『もののけ姫』(1995)をつくったのが54歳だったことを考えると、時代を先読みするというよりは、円熟だとか洗練であるとか、どっしりと落ち着いた物腰が作品に求められてくるころあいだ。

神山が「徐々に年を取っていって、フィジカルの部分を喪失していく」というように、そうした押井自身の老いが『イノセンス』に投影されているだけで、ネットのネガティブな側面を先取りしたというのは過大評価ではないか、と。

それも間違ってはいない。もともと押井はネット上の言説に懐疑的で、ブログやSNSをチェックするということに興味がなく、『ひとまず、信じない――情報氾濫時代の生き方』では、ネットへの疑義についてだけで一冊の本をものしているほどだ。

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押井守『ひとまず、信じない 情報氾濫時代の生き方』Via Amazon

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)や『トワイライトQ 迷宮物件 FILE538』(1987)、『御先祖様万々歳!』(1989-90)と、メタフィクションや実験的な作品を手がけてきて、いっぽうでことあるごとに、娯楽作品をつくり続けてきた宮﨑駿に苦言を呈してきたため誤解されているかもしれないが、本来押井も古いタイプの人間で、そういう意味では押井と宮﨑は似た者同士だ。『機動警察パトレイバー the Movie』(1989)で帆場や後藤が、移りかわっていく東京に対してどのような態度を取っていたか、思い出してほしい。

押井は時代に遅れ、そして時代を見送っていった者だ。「革命の年」である1968年には17歳の高校生で、学生運動に夢中になるも、大学紛争に参加するにはやや遅かった。そうした押井の「遅れてきた」経験は、実写映画『紅い眼鏡/The Red Spectacles』(1987)や『ケルベロス 地獄の番犬』(1991)、原作・脚本を手掛けた『人狼 JIN-ROH』(2000)、小説『獣たちの夜 BLOOD THE LAST VAMPIRE』(2000)などで垣間見られ、評論などでもよく言及されている

だからといって前述した、『イノセンス』の積極的な閉鎖性が誤っているということでもない。『イノセンス』は東が指摘するとおり、「ハードボイルドの美学のなかに閉じこめられている」。しかし、閉鎖的であることをネガティブに結びつけてしまうのは性急ではなかったか。

今回はこのように、公開当時はこぼれ落ちてしまった『イノセンス』が持ちうる可能性について再考してみたい。それは、ともすれば東や神山がネガティブに受け取った要素が、むしろいま、あらためて見直されるべきポテンシャルを秘めているということでもある。それはなにかと言えばすなわち、バトーの生きにくさについて──あえて扇情的に言い換えれば、「弱者男性としてのバトー」についてである。

救いがなく、惨めで、光の当たらない人生をおくる「弱者男性」としてのバトー

現在、「弱者男性」論壇とでもいうべき言論空間が──「弱者男性」という言いかたは好まないのだが、ほかに適切な言葉がないので、ここでは先達に倣うことにする──生成しつつあるようだ。

「弱者男性」とはどのようなものか。批評家の杉田俊介は、「弱者男性」の要素を収入、雇用、容姿の美醜、コミュ障、発達障害やメンタルの病などの問題、パートナーの有無というように列挙している(『男がつらい! 資本主義社会の「弱者男性」論』)。

さて、とりあえず、このように思うだろう。ここに挙げたような「弱者男性」たる要素には、バトーは──なお、本稿で触れるバトーは『GHOST IN THE SHELL』と『イノセンス』に限り、他作品のそれは想定外とする──当てはまらないのではないかと。

190cmに及ぼうとする巨躯、身体をサイボーグ化したことによる突出した戦闘能力、またフィジカルだけでなく、軍隊で特殊任務までこなした豊富な知識と経験もあって、現在は公安に身を置いている。古い言いかたをすれば、「男の中の男」だろう。こう並べてみると、「弱者男性」たる条件にバトーが該当すると考える人はあまりいなそうだ。

しかし、このような「弱者男性」問題を構成する要素は、誤っているとは言わないが、すべてでもない。杉田は「弱者男性」をこのようにも表現する。

どこにも救いがなく、惨めで、ひたすらつらく、光の当たらない人生がある。「男」たちの中にもまた、そういう絶望がある。せめてそのことを想像してほしい。べつに同情してくれとは思わない。助けてくれなくてもいい。ただ、想像し、理解することくらいはしてほしい。そういう苦悶の声。声にならない叫び……。杉田俊介『男がつらい! 資本主義社会の「弱者男性」論』より

杉田は「弱者男性」を内面の問題として取り扱おうとしており、社会の側からのみ解決するのではなく、「「弱者男性」の生の可能性を」、「何らかのポジティヴでアクティヴなものとして提示し直せないものだろうか」と模索する(『男がつらい!』)。

もちろん社会状況が変わり、「弱者男性」を構成する要素が解消され、彼らがその悩みから解き放たれるのがもっともいいのだろうが、それはかなわないことだろうし、なによりこのような要素が「弱者男性」の本質ではない。極端に言えば、安定した仕事に就いていて、高収入で、容姿も悪くなく、病気も障害もなく、コミュニケーションも円滑に取れ、パートナーがそばにいたとしても、「どこにも救いがなく、惨めで、ひたすらつらく、光の当たらない人生」はありうる。自らを弱者と思うかどうかは究極には個人の問題で、第三者が恵まれていると思っていても本人がそう感じていなければ意味はなく、むしろその落差が問題を深刻化させる。

バトーもそれにあたらないだろうか。人並み外れた能力を持っており、誇りを持って仕事に向き合っていて、ひとりで生きていく分には不自由ない稼ぎを得ている。しかし圧倒的に、孤独だ

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