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  • 2024.09.29

課金的リアリズムの行く末──頂き女子りりちゃんが起こした、究極のバーンアウト

課金的リアリズムの行く末──頂き女子りりちゃんが起こした、究極のバーンアウト

クリエイター

この記事の制作者たち

本稿は、批評家・編集者の村上裕一氏が、2024年5月に開催された「文学フリマ東京38」にて配布した論考「バーンアウトの問題」を再構成したものとなる。

バーンアウト(燃え尽き症候群)と言えば、読書という切り口からバーンアウト問題を論じて大ヒットした三宅香帆氏の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が記憶に新しい。

『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』や『ネトウヨ化する日本 暴走する共感とネット時代の「新中間大衆」』などの単著を持つ村上氏は、労働と燃え尽き、その究極系である「頂き女子りりちゃん」とその背景にある人間的資本主義への視座を通して、ゲーム的リアリズムから課金的リアリズムへの移行について論じている。

目次

  1. バーンアウトとは、金が全ての指標となる「課金的リアリズム」の問題系である
  2. 「命がけの飛躍」──頂き女子りりちゃんと新宿タワマン刺殺事件とを分つもの
  3. 頂き女子とホストの売掛問題、あるいは歌舞伎町の下部構造
  4. 101日以降が存在しない、終わり切るメンタリティとしての「地雷系」「自撮り界隈」
  5. 人間的資本主義の、成れの果て
  6. 私たちの道は、虚無の炎へと続いている。

バーンアウトとは、金が全ての指標となる「課金的リアリズム」の問題系である

バーンアウトとは燃え尽き症候群のことで、もっぱらビジネスの場において使われる言葉だ。それまで頑張っていたはずの人が突然やる気を失ってしまう。グロービスによると、コロナによってこの症状に罹患した社会人がずいぶん増えたとされているが、おそらく日本的労働環境においてはこの気配は昔からあったことだろう。

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三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 Via Amazon

会社的な労働環境だけがその現場となるわけではない。たとえば育児疲れした妻がどこかのタイミングで夫に三行半を突きつけるのももっぱらこういうことだろうし(とはいえこれは無気力状態から自分の生を取り戻そうとする「ポスト・バーンアウト」という気もするが)、YouTuberやVTuberが何かの原因によってそれまで順風満帆に活動しているように見えたのに活動をやめてしまうというのも、バーンアウトの表見と思われる

燃え尽きるからには「灰になる」ということだが、この表現をするとかつてニコニコ動画に存在した(今も存在するのかもしれないが)一連の「幻想入り」の物語たちを思い出す。様々な外世界の存在たちが東方Projectシリーズの幻想郷の中に迷い込むという形式の二次創作的アクティビティのことだ。これは連想的な話に過ぎないが、ここで組み合わされるものたちは別にバーンアウトした存在たちではないが、あたかもバーンアウト以後の存在が織り成すドラマのような形式にも見える。

そしてその物語たちのほとんどは、何らかの理由で作者が継続を放棄する。これを「エタる」と呼んでいたはずだ。エターニティ、永遠に終わらなくなる、ということである。これを聞けばあるタイプの人々はすかさず、Key以前の麻枝准らが制作した美少女ゲーム『ONE〜輝く季節へ〜』における「えいえん」を思い出すことになるだろう。むしろ「エタる」ことこそが論理的にはバーンアウトに相当するのだが、幻想の中でバーンアウトすると永遠になるというのは、構想力を刺激する見立てである。

『ONE 〜輝く季節へ〜』のリメイク作『ONE.』

ただ、今回述べようと思ったのはそちらではない。労働者をプレイヤーとして考えたり、あるいは配信者を主体たる「エタる」ものとして考えたりするときのバーンアウトがある一方で、その周辺者のバーンアウトもあり、むしろこちらの方が深刻である。つまり、「投げ銭」をする「ファン」「ユーザー」側のバーンアウトである(その点では労働者としての「プレイヤー」はここにすっぽりと収まることが多い)。

ソーシャルゲーム関係者の知人から聞いたところによると、確かかつてソーシャルゲームのプレイデザインにおいては、「顧客管理」、すなわち、売上の中核をなす廃課金ユーザーがいかに「バーンアウト」しないかを調整することが重要な指標になっていたはずである(無課金ユーザーも強制的に広告視聴をさせる現在の仕組みにおいて無課金/重課金ユーザーの売上としての比率がどうなっているかはわからないのだが)。徳川家康ではないが、「百姓共をば、死なぬように生きぬように」というところで、いい塩梅で搾り取らねばならぬ、ということである。

たとえばゲーマーのような主体が「課」しているのは本来は金銭というよりも体力や時間だったはずなのだが(東浩紀の唱える「ゲーム的リアリズム」)、しかし、パッケージの買い切りではなくなり、ログインボーナスという形で時間管理を「課金管理」に変更した現代においては、逆説的に金が全ての指標となっている

ログボだけではなく、たとえばサブスクというライフスタイルもそうだし、プレイではなく「視聴」、つまり人のプレイングを見ることでゲームを体験する(もちろんそこではゲームプレイの体験が変容しているわけだが)世界においては、よりそれが顕著になる。そこでは「金を払う」こと自体がプレイの経験になるようになってしまっている。無課金ユーザーは金を払っていないと思うかもしれないが、上述の理由により、手間や時間を払うことが、ゲーム的リアリズムの経験ではなく、課金的リアリズムの経験になっているのである。

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東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』Via Amazon

「命がけの飛躍」──頂き女子りりちゃんと新宿タワマン刺殺事件とを分つもの

バーンアウトを二つの側面にわけるとすれば、気力の消尽と、資金力の消尽である。そして、この両者を統合した究極のバーンアウトとも言えるものが「頂き女子りりちゃん」だろう。

億単位の詐欺や脱税で逮捕され、その後彼女が男から金を徴収する手法をまとめたマニュアルが流出したことにより、2024年5月のもっともホットな話題になった「りりちゃん」だが、彼女が逮捕されることになった2023年=令和5年というのは、課金的リアリズムにおける最大の事件の年となったとも言えるだろう。

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