ILLITもLE SSERAFIMも“疎外”されている HYBE内紛で浮かぶ、K-POPの根源的課題
2024.08.25
エロパロとクソマロ。一見これまで論じてきた「スポイル的鑑賞」とみなしうる在り方だが、これらは「正しい鑑賞」になりうるポテンシャルを秘めている。
読者に「スポイル的鑑賞」の特定化とその「正しさ/悪さ」を見定めるための手がかりを提示する、「不適切で、不愉快なVTuber鑑賞論」最終回。
クリエイター
この記事の制作者たち
これまでの連載では、「ケア誘いビジネス」としてのVTuberのビジネス構造を論じ、第二回では、VTuberが労働者として直面する「おもちゃ的労働」の構造を明らかにした。
私たちが次に考えなければならないのは、「私たち視聴者とVTuberのオルタナティブな関係性」である。なぜなら、これらに代表されるようなスポイル的鑑賞──VTuberの活動を邪魔したり、イメージを毀損したり、他のファンの鑑賞を阻害したりするようなVTuberの鑑賞──が前提とするのは、バッドケアの対象としてVTuberに過剰なケアをするにせよ、インターネットのおもちゃとしてVTuberで遊ぶにせよ、どちらもたとえ産業構造や事務所が必要とするにせよ、VTuberの心身を疲弊させる持続不可能な関係性だからだ。
もしも私たちがほんとうにVTuberをケアし、彼らと遊び続けたいと思うのならば、時にはVTuberを引退や卒業に追い込むようなスポイル的関係性からはぜひとも脱却したいと願うはずだ。
では、どうすればバッドケアでもなく、悪しきからかいでもない関係をVTuberと視聴者は築くことができるのだろうか。私は、別のスポイル的鑑賞にオルタナティブな関係性のヒントがある、と考える。「エロパロ=VTuberを扱ったポルノグラフィ的な二次創作」と「クソマロ=VTuberへの執着や異常な愛情に満ちた匿名コメント」に「私たち視聴者とVTuberのオルタナティブな関係性」がある、と私は主張する。
いっけん意味がわからないだろうか。だが、これらにVTuber文化が持続可能になるヒントがある。
エロパロはケア的関係がバッドな関係に至る可能性を解毒する「妄想の毒と薬効」を持っており、クソマロはおもちゃ的関係が悪しきからかいに至る可能性を解除する「ユーモアの毒と薬効」を持っている。エロパロもクソマロも劇薬である。VTuberを傷つける悪しき力がある。逆に、バッドケアと悪しきからかいという別の毒を中和する力を持っている。毒は薬にもなる。
たとえば、後者のおもちゃ的労働へのオルタナティブなアプローチが見られるのは、にじさんじ所属の卯月コウの配信だ。卯月はインターネットのおもちゃになることを進んで受け入れているように思われる。同時に、卯月はおもちゃ的労働をうまく制御しているようにもみえる。
たとえば、卯月の雑談や視聴者からのお便り、とりわけクソマロを中心に配信を組み立て、画像やテキストを介して視聴者と「いじりあう」ような掲示板のスレッド的感性を体現している。後ほど、卯月コウの配信を分析するために役立つ「傷つけるユーモア」という概念を考察することになるだろう。
もしエロパロとクソマロが毒であり薬だとすれば、それは他のアイドル的文化でも利用可能なのだろうか? もちろん部分的には可能だが、VTuberのメディア的な特性によってこそ、エロパロとクソマロはコミュニケーション回路として使用可能になっていることが見逃されてはならない。
本稿の後半では、「トランスメディア」と「アニメティズム」という二つの概念から、劇薬が可能になるメディア論的条件を探り当てる。そうすることで、VTuber文化ならではの特性も浮かび上がってくるだろう。
連載の最後となる第三回では、これまで論じてきたスポイル的鑑賞を乗り越えるオルタナティブなスポイル的鑑賞、いわば「善いスポイル的鑑賞」の可能性を論じる。VTuber文化を持続可能なものにしたり、よりよいものにしたりするためのヒントがスポイル的鑑賞にあるのだ。
では、私たちの歪んだ愛を矯正しうる、さらに別の愛のかたちについて考えていこう。
目次
- エロティックな二次創作の切断力
- 暴力的な妄想はいつ悪くなるのか?
- 関係性をうまく妄想できるか?適切な妄想の技術をいかに身に着けるか?
- クソマロと成仏──傷つけることで成立する特殊なケア
- なぜ傷つけなければならないのか? VTuberと視聴者が対等な関係に立つ方法
- トランスメディアとしてのVTuber、エロパロとクソマロを成立させる特性
- ストリーマーとは違う、アニメティズムとしてのVTuberの配信画面
- スポイル的鑑賞が体現する配信文化の危険性と可能性
VTuberの二次創作が盛んである。配信の一幕をイラストレーション化、マンガ化するようなルポルタージュ的な二次創作はSNSでもっともよく見かける。こうした二次創作をVTuber側も積極的に取り入れている。
例えば、「にじさんじ甲子園」では、VTuber事務所にじさんじに所属するライバーの名前を冠した「パワフルプロ野球」のキャラクターをライバーたちが育成し試合を行っていくなかで物語が生まれていく。そうした物語を取り上げた二次創作が盛んに行われている(浅田 2024)。
今回注目したいのは、VTuberの二次創作の中でもポルノグラフィ的な二次創作同人である。そもそも現代において、決して主流文化として取り上げられることはないが、フィクショナルキャラクター作品のポルノグラフィ二次創作はキャラクター文化・アニメーション文化のなかで、強い存在感を持っている。
VTuberの同人誌の場合は、キャラクター文化的でありながらも、VTuberの中の人がいる以上、非常に加害的になりうる。実際、こうしたポルノグラフィ的な二次創作は、ふつうモチーフにしているVTuberに見つかってはいけないくらいには加害的であるとみなされている。
それゆえ、モチーフにしているVTuberの名前は伏せたり、ファンにだけ通じる隠語にしたりすることで、検索に引っかからないようにする「検索避け」が試みられる。エロパロは、もちろん、マスターベーションや性的興奮のためにデザインされている。「〇〇で抜いた=マスターベーションを行った」といったSNS投稿をするファンも存在するが、彼らでさえもやはり当該VTuberの頭文字だけを使ってこっそりとファン同士でコミュニケートしている。
スポイル的鑑賞を実践するファンたち自身が自認する、VTuberのスポイル的鑑賞の極北だろう。それゆえ、VTuberの鑑賞実践としてほぼ取り上げられてこなかった。確かに、ファンたちが恐れるように、VTuberが自分のエロティックな二次創作に遭遇することは、ときに衝撃的な経験であり、性的加害が成立する可能性も低くはない。
しかし、VTuberのエロティックな二次創作は、場合によっては加害的ではないこともある。というのも、ケア誘いビジネスとおもちゃ的労働と疲労がVTuberに与えるような加害性からは、エロパロははっきりと切り離されているからだ。
まず、VTuberに対するバッドケアにせよ、からかいにせよ、どちらも現実のVTuberに対するアクションだが、二次創作は純粋な虚構である(当たり前過ぎるだろうか)。つまり、エロパロはファンによる性的な欲望や願望のときにグロテスクな表現でありながら、それは虚構世界の中に連れ去られたVTuberに対する表現になっている。そのために、生身の実在するVTuberの中の人に対するケアやからかいが持つ現実的な暴力から切り離されている。
そこから生まれる現象は、自分をモチーフとしたポルノグラフィ的二次創作をみて喜ぶVTuberの存在だ。これはおかしなことではない。なぜなら、先ほど指摘したように、VTuberに対する性的欲望が直接VTuberにぶつけられるのではなく、虚構世界の中のVTuberに対してぶつけられている。いわば、それは「フィクション」として私たちの世界から隔離されている。
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