Interview

  • 2026.08.28

生成AIはアニメをどう変えるのか/変えないのか──『秒速5センチメートル』作画監督 西村貴世が語った“つくる理由”

生成AIはアニメをどう変えるのか/変えないのか──『秒速5センチメートル』作画監督 西村貴世が語った“つくる理由”

生成AIはアニメをどう変えるのか/変えないのか──『秒速5センチメートル』作画監督 西村貴世が語った“つくる理由”

画像や映像、音楽まで生成できるAIが急速に普及した。

創作を教える場所は、この技術とどのように向き合っているのだろうか。

作品制作の効率を上げる新しいツールとして使い方を教えるのか、著作権や学習データをめぐる問題を伝えるのか、あるいはもっと批判的な立場から糾弾するのか──国内の美術大学では、生成AIと創作の関係性をどのように教えているのだろう

そんな疑問から、KAI-YOUとして武蔵野美術大学の公開授業を訪れた。7月11日、公開授業「AI時代に創る意味と意義」が行われた。

登壇したのは、同大学で「イノベーションのための実践的社会論」を教えるJag Yamamotoさんと、『秒速5センチメートル』のキャラクターデザイン/作画監督をはじめ、新海誠監督作品や『映画ドラえもん』シリーズ、『窓ぎわのトットちゃん』などに参加してきたベテランアニメーター・西村貴世さん。

(当然ではあるが)この授業において生成AIの操作方法やプロンプトの書き方が教えられることはなかった。代わりに議論されたのは、作品が生まれるまでに人間が何を見て、感じ、誰と対話しているのかという、技術以前の問いだった。

90分の授業から浮かび上がったのは、完成品だけを比較していては捉えられない、“創作”という行為の姿があった。

取材/文:米村 智水

目次

  1. 生成AIの時代、人間がつくったという事実は「価値」になるのか
  2. アニメーターはアーティストではなく「職人」
  3. AIと感情「泣いているシーンを描くと、みんな泣き顔になる」
  4. “新しい動き”はどこから生まれるのか
  5. 手描きのアニメーターが、3DCG到来に直面したときの実感
  6. 映画は、つくり手たちの「コミュニケーションのログ」
  7. オリジナルの「一作目」をつくるのは誰か
  8. アニメーターとしての成功は“偶然”だった──高校時代の“暗くした教室”の記憶
  9. 人間ならではの学習の偏りが“作家”をつくる

生成AIの時代、人間がつくったという事実は「価値」になるのか

7月11日、武蔵野美術大学・鷹の台キャンパス。オープンキャンパスで賑わう同校の敷地には、同大学の学生に加え、進学を検討する高校生や保護者の姿が並んでいた。

中国や韓国から来たであろう人も目立った。アジア圏での現代美術の盛り上がりは耳に聞いていたが、美術を志す人はやはり多いらしい。

会場となる9号館の教室に着く。屋外の酷暑から、空調の効いた大教室に落ち着く。この日開かれたのは、大学の公開授業「AI時代に創る意味と意義」。休日だというのに、次第に着席していく学生の数に驚いた。定刻通り、学校のチャイムが鳴る。

進行役をつとめたJag Yamamotoさんは、商品企画や新規事業開発、Webマーケティング、メディア、音楽などを横断して活動するプロデューサー/クリエイターだ。武蔵野美術大学では、価値や市場が生まれる仕組みを考える「イノベーションのための実践的社会論」を担当している。

授業は前週の“哲学編”を振り返るところから始まった。

産業革命によって機械による大量生産が広がる一方、手仕事の回復を掲げるアーツ・アンド・クラフツ運動が起きたこと。機械編みのレースが手編み以上に精密になっても、富裕層は人の手でつくられた高価なレースを求めたこと。

公開授業「AI時代に創る意味と意義」講義資料より

公開授業「AI時代に創る意味と意義」講義資料より

複製技術が作品固有の「アウラ」を失わせるならば、人は制作の背景や、同じ場所で同じ時間を共有する体験にアウラを見出すのではないか──。

Jagさんは、過去の技術革新を手がかりに、生成AIをめぐる現在を捉え直していく。

「AIが短時間で精巧な成果物を生み出すほど、『人間がつくった』という背景自体がプレミアムになる可能性がある」「人は完成品だけでなく、そこに費やされた時間や労力も含めて価値を判断するからだ」Jag Yamamotoさん

しかし、話は「手間をかければ価値が出る」という単純な精神論では終わらない。

Jagさんは、作品が鑑賞者に感動や経験をもたらすものではなく、話題についていくための“道具”へ近づくほど、AIが代替しやすくなるのではないかと問いかけた。映画を倍速で見てあらすじだけを把握する行為も、その一例だ。

ここでJagさんが繰り返したのが、「記号化」という言葉だった。

たとえば、名画そのものには一枚しか存在しないオリジナルとしての価値がある。画集や複製画になれば、「その絵を所有する」ことよりも、「好きな絵を手元に置く」ことへと価値の軸が移る。さらに絵柄がマグカップやポットへ印刷されれば、作品は「有名な作家の代表作」「自分が好む世界観」といった、共有可能な記号として消費されていく。

キャラクターグッズはその代表例だ。キャラクターの描かれたグッズを買う人の多くは、その絵を誰が描いたか、クリエイターの名前や顔を気にしない。キャラクターの来歴や性格、作品の記憶といったナラティブが一つの記号へ圧縮され、「このキャラクターだから欲しい」という購買動機を生む。

この段階では、個々の商品の図柄を人が描いたのか、AIが生成したのかという差は見えにくくなる。消費者が求めているのが描き手の表現ではなく、既に共有された記号だからだ。

公開授業「AI時代に創る意味と意義」講義資料より

公開授業「AI時代に創る意味と意義」講義資料より

Jagさんは、映画や音楽、ゲームも、他者との会話へ参加するための共通言語になるメディアであるほど、同様の変化が起きると指摘する。作品を体験することよりも「話題になっている作品の内容を知る」という機能が優先されれば、コンテンツはコミュニケーションを成立させるための道具になる。

それ自体が悪いわけではない。作品には昔から、情報や娯楽を届け、人と人をつなぐ機能があった。しかし、機能に正解がある領域は、AIが力を発揮しやすい。ユーザーが欲しがる記号を素早く見つけ、整え、既知の型へ当てはめることができるからだ。

「私たちは、用事をこなすための道具をつくりたいのか」Jag Yamamotoさん

その問いを残し、アニメーション制作の現場を知る、西村貴世さんが登壇する。

アニメーターはアーティストではなく「職人」

ゲストの西村貴世さんは、フリーランスのアニメーターだ。

新海誠監督の『雲のむこう、約束の場所』への参加をきっかけに、『秒速5センチメートル』でキャラクターデザインと作画監督、『星を追う子ども』でキャラクターデザイン、作画監督、絵コンテ協力、『すずめの戸締まり』で作画監督補佐などを担当してきた。

そのほか複数の『映画ドラえもん』作品、八鍬新之介監督の『窓ぎわのトットちゃん』などにも参加。『窓ぎわのトットちゃん』では制作初期のイメージボードから携わり、作画監督もつとめている。

西村貴世さん

西村貴世さん

この段階では、個々の商品の図柄を人が描いたのか、AIが生成したのかという差は見えにくくなる。消費者が求めているのが描き手の表現ではなく、既に共有された記号だからだ。

公開授業「AI時代に創る意味と意義」講義資料より

アニメーターの仕事は、監督が描いた絵コンテを読み込み、画面の空間を設計し、登場人物に必要な芝居を与えることだと西村さんは説明する。原画の間をつなぐ動画、彩色を担う仕上げ、撮影へと仕事が受け渡され、最後にすべてが監督のもとで一本の映画になる。

西村さんは、自らを「アーティスト」よりも「職人」だと捉えている。

「僕らは大勢で映画をつくっているので、分業の中の一つの部分なんです。大きな機械の一部のパーツをつくっているようなところがあるので、職人かなと思っています」西村貴世さん

一人の作者が自律的に作品を完結させるのではない。前の工程から意図を受け取り、自分の解釈を加え、次の工程へ手渡す。西村さんの言う「職人」は、ただ指示通りに絵を描く作業者という意味ではない。共同制作の流れの中で、作品全体を成立させる判断を担う者のことだ。

原画を描いたアニメーターの仕事を、完成した映像から逆算して理解するのは難しい。観客が目にする線は、原画担当の鉛筆線そのものではなく、多くの場合、動画を担当するアニメーターが描き直した線である。そこへ色が付き、背景や光、カメラワークと組み合わされ、一本のカットになる。

画面内には原画を手がけたアニメーターの名前も、かけた時間も表示されない。だが、完成品の動きを根底で支えている。

この見えにくさこそ、西村さんが自らを職人と呼ぶ理由の一つなのだろう。作品に参加した痕跡を署名のように残すのではなく、映画全体の目的に奉仕する。必要なら目立つ動きをつくり、必要なら誰にも意識されない自然さをつくる。

では、その判断はどこから生まれるのだろうか。

AIと感情「泣いているシーンを描くと、みんな泣き顔になる」

原画家は、絵コンテに詰め込まれた情報を読み取り、キャラクターの表情や動きをつくる。強く感情を見せたい場面なら線をくっきりさせることもある。そうした線の強弱は、知識だけで機械的に選ばれるわけではない。

「気持ちで描いている部分もあるから、泣いているシーンを描くと、みんな泣き顔になっているんですよ、描きながら。それぐらい自分の身体性みたいなものを落とし込んでいく部分がある。気持ちがぐっと前に出たら、線もはっきりしたりするんです」西村貴世さん

Jagさんはその話を受け、「AIは絶対に泣きそうな顔で描かない」と応じた。

もちろん、制作中の人間が泣き顔をしていたからといって、その感情がそのまま鑑賞者へ伝わるとは限らない。逆に、AIが生成した映像によって人が泣くことも、もしかしたらあるかもしれない。

重要なのは、人間の制作では、描き手が物語へ感情移入し、その反応を身体に通して線へ変換する過程が存在するということだ。西村さんは、アニメーターという職業を「人がこういう気持ちのときにどう動くか、病気のように研究している」人々だと表現した。

仕事では、ギターの演奏、疾走する馬、日常の何気ない仕草など、描いた経験のない対象が突然割り振られる。そのたびに資料を探し、専門家に聞き、自分で同じ動きをしてみる。撮影した自分の身体を見返し、「思ったより先に手が出る」と気づくこともある。

観察によって蓄積された膨大な情報は、明文化されたルール集として保存されているわけではない。頭と身体に入り、絵コンテやキャラクターに応じて選び直される。

「絵コンテを見て、このカットに必要なのはどれか、ということがまず起点にある。このキャラクターは力強いからこう、弱々しいからこう、女性なら、老人なら、とチョイスした果てにあるんです」西村貴世さん

生成AIも過去のデータから出力をつくる。その意味では、人間もまた過去に見たものや経験を組み合わせている。しかし、人間のアニメーターは、物語上の意図と目の前のキャラクターを起点に、観察と身体経験を引き出し、その都度選び直している。

「何を学習したか」だけではなく、「なぜ、いま、この動きを選ぶのか」──その選択の根拠にまで目を向けると、人間とAIを単純に同じ仕組みとして扱うことの難しさが見えてくる。

“新しい動き”はどこから生まれるのか

生成AIは、既にある膨大な表現を学び、それらの特徴を組み合わせて新しい出力をつくる。一方、人間の創作も、過去に見聞きしたものや経験から完全に自由ではない。

はたして、人間だけが“無”から何かを生み出している、と言えるのだろうか。

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