Interview

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  • 2022.11.12

CHICO CARLITOが、ラップをやめて沖縄に戻った日

音楽に救われた日──“強く”あることを求められがちなラッパーも、悩み、苦しみ、自分と向き合って人の心を打つ音楽を生み出す。その苦悩を通して、音楽という救済の意味を知る。

CHICO CARLITOインタビュー前編

CHICO CARLITOが、ラップをやめて沖縄に戻った日

もうラップはいいかなって思ったんすよね。沖縄に戻って、丸坊主にして……

まさか、そこまで思いつめていたとは。

インタビューを開始して45分後にCHICO CARLITOが発したその言葉に、ラップをやめていた3年間に対する後悔の深さを感じ取った。

後悔は深くてもこの航海は続く
破り捨てる2017からの沈黙
CHICO CARLITO『G.O.A.T.』より

目次

  1. 連載「音楽に救われた日」
  2. 『Sandra’s Son』が雄弁に語る、CHICO CARLITO空白の3年
  3. 活発で勉強も好き。バンドにハマったサッカー少年は、まだヒップホップに出会わない
  4. ラップを始めた日、隣には唾奇がいた
  5. 「沖縄を一度離れたかった」上京してラップ漬けの日々
  6. ヒップホップなら、不良のフリをしなくても、オタクのふりをしなくても──
  7. 『フリースタイルダンジョン』抜擢という、急激な変化
  8. 借金にダンジョンでの敗北、周りは就職…増えていった酒の量

連載「音楽に救われた日」

本連載「音楽に救われた日」は、筆者が編集部に持ち込んだものだ。「カルチャーは人を救うのか?」という普遍的な問いから始まっている。

時は令和、このコロナ禍において、アートや映画、音楽などのカルチャーは不要不急かどうかが論点となった時期がある。そのことについて考えるを深めることになったきっかけは、連載を共にするフォトグラファーの小田駿一が21年に「アートは不要不急か?」と問いかけて主催したアートフェア「GALLERY OF TABOO」だった。

音楽や映画、アニメ、小説などのカルチャーを楽しむことで一時でも辛い状況を忘れることができる、一度でも救われた──そんな経験がある人は多いはずだ。特に外出自粛ムードが蔓延したこの2年間でより明示的に経済的衰退を遂げていく日本を生きてきたなら、むしろなおさらだろう。

音楽は言葉とともに聴覚に訴えかけ、感情を揺さぶる。たとえ言葉がわからなくても、音によって気持ちが前向きになったり、沈んだりする。しかし、聴く人の魂を震わせる音楽をつくるアーティストだからと言って、ステージの上にいる時のように輝いている時間は、そう多くはない。

時に自分の辛い過去にも向き合いながら、言葉を紡ぎ、作品を生み出す。人生のほとんどを地味な作業に費やしている。誰かの心を打つ作品を制作できるのは、とことんまで苦悩し、それを表現する術を得て、地道に形にしてきた孤独な時間があったからこそだ。

同時に、アーティスト自身もまた、自らの魂を音楽にすることで救われてもいるはずだ。特にレベル・ミュージックであるヒップホップにおいては、持たざる者がマイク一つで成り上がるために“強くある”ことを求められがちだ。しかし、ラッパー自身も葛藤し、その魂が傷つくこともあれば、音楽によって救われることもある。

『Sandra’s Son』が雄弁に語る、CHICO CARLITO空白の3年

CHICO CARLITOの2ndアルバム『Sandra’s Son』を初めて聴いた時から、この連載の初回は彼以外に考えられない━━そう決めていた。

社会現象とも言われたMCバトル番組『フリースタイルダンジョン』初代モンスターとして名を馳せ、2016年1stアルバム『Carlito’s Way』をリリース。順風満帆な同年代のラッパーたちを横目に、いつしか彼の名を聞く機会が減っていった。空白の3年間があったからだ。

久しぶりにCHICO CARLITOの名前を聞くことになった2022年。リリースされた『Sandra’s Son』からは、彼がこの数年悩み、もがき苦しんできたことが十分すぎるほどに伝わってきた。

1stアルバムに比べて内面を吐露したリリック、豪華なトラックメイカーやプロデューサー陣が制作したトラック、そしてエグゼクティブプロデューサーにELIONEを迎え、曲順通りに聴くことで浮かび上がるアルバムを通底する意味。

『Sandra’s Son』を繰り返し聴くうちに、筆者の中で過去に起こった個人的な問題──酒に溺れ、借金をし、引きこもり、色んな人を失望させた──そうした過去の記憶が蘇る。

9月にリリースされたシングル『Day by Day』は、まるで筆者のことをラップしてくれているかのようにさえ感じた。それは錯覚ながら、名もなき中年ライターと、もうすぐ30歳を迎える著名なラッパーとの交わることのない人生が、一瞬でも交差したかのような感覚だった。

活発で勉強も好き。バンドにハマったサッカー少年は、まだヒップホップに出会わない

取材を行ったのは10月下旬。

取材場所の近くまで着いてキョロキョロとまわりを見回していると、キレイに髪を剃り上げた男性の後ろ姿が目に入る。近づいて声を掛けた。こちらを振り向いた彼に「よろしくお願いします」と挨拶をする。相手は「CHICO CARLITOです。今日はよろしくお願いします」と応えながら手を差し出してくれ、握手を交わした。

予定より早く始まった取材。目の前にしたCHICO CARLITOは、45分後に冒頭の言葉を口にするとは思えないくらい、目が輝き、充実感を漂わせた顔をしている。失礼ながら「いい顔をしているな」と思った。

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CHICO CARLITOは、1993年生まれ、沖縄県那覇市出身のラッパー。

MCネームの「CHICO」は、プエルトリコ系の米兵であった母方の祖父のあだ名から名付けた。その祖父と同じプエルトリコ系の主人公で、公開年が自身の誕生年と同じアル・パチーノ主演の映画『カリートの道』から「CARLITO」を合体させ、CHICO CARLITOと名乗っている。

映画好きなCHICO CARLITOの1stアルバム『Carlito’s Way』は、その『カリートの道』からきている。

幼い頃から活発な性格で、歩くのも言葉を覚えるのも早かったという。小学校低学年から高校まで続けることになるサッカーを始める。強豪校ではなかったが、サッカーが結んだ縁は深く、今でも年に一度ほど93年生まれの県内の元サッカー部員で集まって、フットサルをするという。

「高校を卒業して10年以上経ってるけど、サッカーでしか繋がり得なかった縁が今でも続いているのはいいですよね」

一方、学ぶことも好きという一面も持ち合わせていた。

「保育園の時、友達とボールを蹴ったり遊んだりもするんですけど、親が迎えに来るまでの間は、引き算の問題を先生に出してもらっていたのは今でも覚えていますね」

小学生になると、海外のMVや日本のチャートTOP50のMVを流すケーブルテレビ番組などをよく観ていた記憶があるという。この時の影響が、後に彼を音楽に向かわせたのかもしれない。

「歌ったりするのはずっと好きでしたね。でも、家で常に音楽が流れていたとか、お父さんがギターを引けるとか、レコードがたくさんあるとか、いわゆる音楽一家だったわけではないんですよ」

CHICO CARLITOの中には、今でもHOME MADE 家族『少年ハート』やスキマスイッチ『全力少年』など当時のヒット曲のMVが印象に残っているが、ヒップホップに傾倒することはなく、年齢を重ねるうちにバンドに興味が湧いていった

2000年代、10代のアーティストによるロックフェスイベント「閃光ライオット」でのバンドたちの躍進を横目に高校1年を迎えた彼は、ELLEGARDENやRADWIMPSなどに憧れ、コピーバンドを結成。CHICO CARLITOはボーカルを務める。しかし、一度ライブをしただけで解散してしまう。

「バンドのメンバーとも話が合わなかったし、部活もあったから別にいいかなって。でもバンドは今でも好きっすね」

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サッカー好きのCHICO CARLITO。サッカー漫画やアニメからの影響も少なくなかった。「今の子たちが『アオアシ』をオンタイムで観れてるの、まじでうらやましいっすね。現役時代に観たかった」と絶賛

学ぶことが好きだったCHICO CARLITOは私立の中学に進学したが、実は退学となって公立に転校した過去を持つ。

「勉強もサッカーも好きだったし、友達もいたし。別に優等生でも不良でもなかったんですよ。エネルギーがあり余ってたんじゃないですか(笑)

高校でも停学処分を受けた。校長室に呼ばれて「このままだと退学になる」と告げられる。彼はそのまま高校を辞めようかとも思ったが、サッカー部の顧問で英語の先生でもあった恩師に引き止められた。

部活と並行して勉学にも励むようになったCHICO CARLITOは、受験を控える高校3年生のとき、再び校長室に呼び出される。「君の成績は学年で3番目です。1位が東大、2位が京大を受けるから、君は早稲田を目指しなさい」と告げられた。彼自身も早稲田大学を志望したが、現役で合格することは叶わなかった。

実はここが、ラッパー「CHICO CARLITO」にとっての分岐点だったとも言える。

ラップを始めた日、隣には唾奇がいた

2012年、那覇で迎えた浪人時代。友人がアルバイトしていた店によく遊びに行っていたCHICO CARLITO。そこでは、後に沖縄を代表するラッパーのひとりとなる2歳上の唾奇がバイトをしていた。唾奇は、国産のヒップホップの曲をよくかけていたという。

「唾奇に『この曲ヤバいから』とか言われながら、聴かされたんですよね。それまでヒップホップは、自分にとってなんとなく一番遠い音楽だったんですよ。映画『8MILE』もドンピシャな世代なのに、なぜか遠ざけてた。今思い返すと、ラップという歌唱法が自分が好きで聴いてた音楽とは遠かったからでしょうね」

CHICO CARLITOは唾奇を通してヒップホップと改めて出会い、少しずつ聴くようになっていった。

「ある時、唾奇にクラブに連れて行かれて。それが、RITTOさん司会のMCバトルだったんです。しかも優勝賞金が10万円。高校卒業したての18歳の俺にとって10万は大きかったし、これなら俺でも出来るなと。その日の帰り道にフリースタイルを始めたんです」

フリースタイルはやるようになったが、ラップを始めるにはどうすれば良いか。店で唾奇に相談してみた。

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