『ペルソナ5R』は大衆社会論である──安易な自己責任論とディストピアの困難について
2024.10.04
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「親も兄ちゃんも妹も、自分からしたらめちゃ歌が上手くて。自分はスーパー音痴で。『大きなのっぽの古時計』の音程も取れなかったんですけど、歌うのはめちゃ好きだったから、公園や部屋とかで練習して」
2021年リリースの楽曲「好きなこと」で日本のヒップホップシーンに突如躍り出た柊人。
しかし、その出自はあまり語られてこなかった。
太陽光がアスファルトを照りつけ、反射光で体が溶けるほどの暑さが身にまとう7月のとある日の東京。都心のインタビュー場所に柊人は15分遅れで姿を現した。
ラッパーがインタビューに遅れてやって来ることもしばしばだが、「ウチナータイム」という言葉を思い出す。かつて待ち合わせに遅れて来た沖縄出身の知人に言われた言葉で、“沖縄独特のゆっくりした時間の流れ”を指す。
いつもいい日にしたい そう上手くいかない柊人「絶景」Executive produce by NAPPY BWOY
「好きなこと」に代表されるように、柊人の楽曲は好きなことややりたいことのために、「今が頑張るときだ」「いつかやりたいことで生きていける」というポジティブなメッセージが込められている反面、現状や未来への不安が随所に散りばめられた歌詞が多く、若者を中心に共感を集めている。柊人自身がそうした経験を乗り越えた先で綴られ歌われるリリックだからこそ、人々の心に響くのだろう。
元漁師──ラッパーの中でも異色の経歴を持つ柊人が自身の足跡を語るインタビューは、世には存在しない。
「そんなに話すのが上手くないんですよね……!」実際にインタビューが始まると、どこか緊張している様子の柊人。ステージ上やMVで見る姿とのギャップがあった。
同席したバックDJ・プロデュースを務めるDJ NAPPY BWOYは「立つステージはどんどん大きくなってきてるけど、ライブで『(柊人)緊張してるな』とか思ったことないっすね」と語っていただけに余計意外だった。
撮影協力:不眠遊戯ライオン(@music_bar_lion)
目次
- 歌も音楽も、言葉も──家族の中で一番不器用だった柊人
- オーストラリアでヒップホップと出会い、『ワイルド・スピード』で日本語ラップに触れる
- 柊人は英語、相方は日本語という2MCクルー
- 学業そっちのけで音楽と仕事 盟友と恩師との出会い
- 人も金もなくなって、借金だけが残った
- 周りに呆れられる中、音楽に誘い続けてくれたCHOUJIの存在
「沖縄からのアーティストで柊人と言います。よろしくお願いします」
柊人の口調は丁寧だ。自身の半生を語るインタビューに応じてくれた理由を明かす。
「これまで自分のきれいなところばかり見せてたので、だらしない素の部分も知ってもらえたら。ネット上には、38歳でCHOUJIさんの飲み友達みたいな情報もありますね。どっからの情報かわからないですけど(笑)」
1993年生まれの31歳。今では沖縄のイメージが強いが、生まれは異なっている。
「高知県で生まれて、小学校2年生からオーストラリアで育って、中学3年から沖縄に移住しました。沖縄に一番恩があるって感じですね。音楽的にもルーツは沖縄と言いたいっすね」
なんでも柊人の父は『クレイジージャーニー』に登場しそうな絶滅危惧種や少数民族の写真を撮影するフリーランスのフォトグラファーだったという。オーストラリアには絶滅危惧種が2000種以上も生息している。そのため小学校2年の時に、父の仕事の都合で高知県からオーストラリアへ移り住んだ。
「幼い頃は、親父がどこかへ撮影しに行って、帰ってきたら土産話を聞くのが楽しかったですね」
父から冒険譚を聞かされる小学生生活はさぞ楽しかったことだろう。
一方、オーストラリアに移り住んだ当初は、異国の地での適応に苦しんだ。特に、柊人にとって言葉の壁は大きかった。
「現地の学校に通ってたんですけど、高知からオーストラリアに行ったんで英語が全然しゃべれなくて。そっから徐々に覚えてたんですけど、兄ちゃんや妹に比べると、自分が一番英語覚えるの遅かったっす」
柊人は3人兄弟の2番目で、3歳上に兄が、下には妹がいる。自宅では、常に音楽が流れるいわゆる音楽一家で育った。
「両親とも、ブラックミュージックとか海外の音楽が好きで、その影響はあります。家には音楽が溢れてましたね。特にメロディが乗ったR&Bとか好きだったっすね。最近、実家でLauryn HillやElykar BaduとかのCDが見つかって。そういう歌手が俺のルーツですね」
Lauryn HillもElykar Baduも、いち時代を象徴するR&B歌手。柊人の歌声を一度でも聴いたことがある人なら、そのルーツに納得がいくだろう。
柊人は「スーパー音痴だった」と幼少期を振り返ったが、音楽的なコンプレックスは歌だけではなかった。
「兄ちゃんがギターを弾いて、親の前で披露するのを見て、めちゃいいなと思ったり。妹もチェロをやってたり。自分が一番音楽ができない分、やりたいなっていうのはずっとあって。だから今、めちゃありがたいです」
兄弟でただひとり音楽が苦手だったなら、ふてくされて音楽を諦めてしまいそうなものだが、柊人は違った。むしろ、だからこそ今があるんだと言わんばかりに当時の環境を振り返る。
兄と妹が楽器を嗜み、柊人は唯一音楽は苦手だったというが、音楽好きの血は争えなかったのか、柊人もまた音楽の道へと導かれていく。
ヒップホップに出会ったのは、日本の中学2年生にあたるオーストラリアの8年生の時だった。
「学校ではアラブ系やクロアチア系のグループと仲が良くて。みんなヒップホップが好きで、最初は友だちの影響でLil Wayneや2PACを聴いて。ギャング的な意味は理解してなかったですけど、C‐Walkとかも真似てましたね」
C‐Walkは、もともとアメリカ・ロサンゼルスに拠点を置くギャング・クリップスが行うステップだ。22年のスーパーボール・ハーフタイムショーでスヌープ・ドッグが披露して話題となった。
オーストラリアでヒップホップを聴き始めた頃、2006年に映画『ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT』が劇場公開された。劇中歌であるTERIYAKI BOYZの「TOKYO DRIFT」は、その後コロナ禍中に世界中でさらに大流行した。
「オーストラリアでも当時からめちゃ流行ってて、携帯の着信音にしてましたね。日本語のラップを聴いたのはそれが初めて。学校には、自分と兄ちゃん含めて3人しか日本人がいなかったから、『これ何言ってんの?』とか知らない奴らにも聞かれるようになって。日本人として嬉しかったっすね」
日本語ラップに出会った矢先、柊人一家にビザの問題が発生する。滞在期間がマックスを迎えたのだ。そのため一家は、オーストラリアを後にせざるを得なかった。
「次にどこに住もうかとなって、家族で相談したんです。温かい場所が好きだったから、兄ちゃんだけオーストラリアに残して、両親と自分と妹は沖縄に移り住んだんです」
中学3年生の時。小学校2年生以来の日本での生活が、初めての土地・沖縄で始まった。
「逆に日本語がカタコトになってたから、日本に戻る前に自分の名前を書くことから練習して。それで、中学校の終わりに沖縄に転校しました」
オーストラリアで生活しながらも、日本の漫画やドラマなどを見てはいた。そこで描かれる母国の学校生活に憧れも抱いていたという。
「転校してきて結構すぐだからほとんど通ってないのに、卒業式では自分が一番泣いてましたね(笑)」
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