徹底的に完璧に隔たった断絶 『さよならを教えて』

Interview

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  • 2019.12.04 20:00:00

※本稿は職場での回覧に適しておらず、ショッキングな内容が含まれています。紹介する作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載したうえで、この作品を紹介します

徹底的に完璧に隔たった断絶 『さよならを教えて』

『さよならを教えて comment te dire adieu : BANDE ORIGINALE』(画像出展:Amazon)

インターネットが分断を生んだわけではなく、もともとあった分断を、インターネットが浮き彫りにしただけだ。

このあいだ、インターネットで知り合ったスコットランドの友人が日本に来てくれて、私はかれと夕食をともにした。かれはもともとロンドン生まれのPoshなタイプなのだが、そうした生活に飽き飽きしたことと、奥さんがスコットランド生まれだったこともあって、結婚してから移住したそうだ。それでスコットランドの文化に大人になってから触れたのだが、かれにとっていちばん印象的なのは、スコットランド英語のアクセントらしい。実例でいえば、"Pull up your trouser(ズボンをあげる)"という言い回しがある。その"trouser"のアクセントは、イギリス英語だと「トラウザア」なのだが、スコットランドだと「トルーザア」らしい。スコッチでべろべろになっているスコットランド人のおじさんが、気合い入れていけよ! とパブで若者に発破をかけるときの、「トルーザア!」という言い回し──これがかれにとってのスコットランド、奥方への愛とともに見つけた第二の故郷の、もっとも的確な印象らしい。私は自分の大阪弁と標準語の感覚のちがいを挙げて返答し、"I can deeply relate that."(その感じにはじつに共感するよ。)と付け加えた。

さて、いくらかの読者は、この時点でこの文章を読むことをやめている。つまり、ある人間が他人を理解しようとするときの努力の限界は、この文章を読み通せるか読み通せないかの境目に似ている。

読み通せなかった人間は分断を煽っていると言いたいわけではない。ある人間がもつ時間は限られており、また趣味趣向もぜんぜん違うわけだから、読むのをやめることだって、充分考えられることだ。私にしてみても、なんでもいいが、たとえばアイヌ民族や琉球民族の歴史や文化を調べようとして退屈した記憶があるし、鹿児島生まれの友人の祖父にやたらと焼酎を勧められて辟易したこともある。

つまり人間ひとりに理解できる文化や個性のパターンは有限なのであって、それは差別的思想がどうだとか、無知無学が原因なのだとかいった話ではない。分断とは、純粋に個人の能力の問題に帰してくるのだ

Boomerはたしかに無知蒙昧かもしれないが、そうなってしまったのはかれの視力が悪かったからなのであって、Boomer自身にすべて責任があるとは言い切れない※1。先天的に近視であることは罪ではない(ちなみにわたしもひどい近眼だ)。

※1 編注:TikTok発のミームとして欧米圏のメディアでしばしば取り上げられる「Boomer」(YouTube)。ある特定世代を揶揄する場合もあるが、ここでは「分断を乗り越える力をもたない者」の意

こうした状況において芸術が果たす役割のひとつには、おそらくその通路をもちいてしか理解することができなかったであろう特殊な人間、あるいは個別の人間にかんする理解を、楽しみとともにもたらしてくれることである

私は魔法を使うことはできないが、魔法の力をもつ人間の喜びや悲しみを、さまざまな作品から学んできた。あるいは私は現実世界では一介の平社員にすぎなかったが、ある種のロール・プレイイング・ゲームにて、五百人の人間をひとつにまとめたこともある。それによって私は社長職というものの喜びや悲しみを知った。

さまざまな場所で生まれたさまざまな作品を鑑賞することによって、私たちはよりたくさんの人間のパターンや、個性を知っていくことができる。そして、そうすることによってしか分断は解消されない。

誰だって家族や恋人を殺されればひどく悲しむものだが、地球の裏側に住んでいるべつの肌の色の人間はそうは感じないと思い込んでいる人間は、ざらにいる。そうならないように、私たちはもっと賢く、さまざまなことを学んでいかなければならない。

絶対に飛び越えられない分断とは何か

前置きが長くなった。

こうした楽しい学びの過程において、私たちはしばしば、作家が自分自身の限界ぎりぎりまで戦った例を目にすることがある。人類史上において極めてまれなケース、つまり朝目覚めたとき自分が虫になっていたとか、ママンが死んだので海水浴に行くだとか、待てど暮らせど神が現れないとかいったものだ。

このあたりであれば、私たちはぎりぎりまでRelate(共感する、関連付ける)ことができる。

しかし、闘牛場のうだるような暑さのなかで闘牛の睾丸を所望し、自分の秘部に挿入する娘であるとか、西暦2077年のシベリアで培養された文豪クローンたちから取り出された反エントロピー物質『青脂』をヒトラーの静脈に注射することによって宇宙が脳みそにくるまれるだとか、

キチガイ地獄外道祭文
──一名、狂人の暗黒時代──

墺国理学博士
独国哲学博士 面黒楼万児 作歌
仏国文学博士

ああア──アア──あああ。右や左の御方様へ。旦那御新造、紳士や淑女、お年寄がた、お若いお方。お立ち会い衆の皆さん諸君。トントその後は御無沙汰ばっかり。なぞと云うたらビックリなさる。なさる筈だよ三千世界が。出来ぬ前から御無沙汰続きじゃ。きょうが初めてこの道傍に。まかり出でたるキチガイ坊主……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……夢野久作『ドグラ・マグラ』、1935年

といったケースを理解することはむずかしい。つまり、断言してしまうと、精神失調について語られたものを理解することはむずかしく、また書くこともむずかしい

徹底的に異邦人であることや、戦争後遺症患者であること、子供のころに陵辱された経験をもつこと、家庭内暴力、薬物依存、あるいは身に覚えのない犯罪で逮捕されること、身に覚えのない権力を持たされること、大切なものを破壊されること──こうした体験は、もちろん心理的にはつらい告白にはなるだろうが、論理的には記述可能である。

しかし精神失調に関しては、そのタイプにもよるけれど(『アルジャーノンに花束を』)、芸術作品として完成させようとするときの難度は格段に高い。

なぜか? それは、描かれる対象である人間が、どうしようもなく、救いがたいほど、我々との繋がりを絶たれてしまっているからだ。壮絶なまでの分断、思想的な離れ島、孤島である。というのも、もしもある人間の現実への理解力や、現実を見るための眼鏡が、おそろしいまでに歪められてしまっているのであれば、どうやってその人間はわれわれとおなじ視点から見たり話したりすることができよう。

あるいは、私たちはどうやってその歪んだ眼鏡から見た世界を理解できるだろう。屋上の烏を、蝋人形を、人間の臓器の化学標本を、猫を、いたいけな少女と誤認してしまい、夕焼けがもっとも鮮烈な時間にしか自意識を保つことができない症例をもつ人間による記述を、どのようにして書くことができるだろう。

その実例が『さよならを教えて』である。

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「凄絶な分断」を克明に描く価値