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  • 2019.11.05

変えようのない運命への、唯一の対抗手段 『The Red Strings Club』

何をしようと結末は変わらない。運命の赤い糸は編み込まれている。

それでも目の前の仕事に向き合う必要は?

クリエイター

この記事の制作者たち

自分は自分の人生をコントロールしていると考えること、どのような不幸も不徳のために自らが引き寄せたのだと信じること、あらゆる幸福はみな自分の仕事に支払われた正当な対価であると思うこと。これらはすべて、知性と想像力に欠けた者が行う行為である。

そうした人々は、十八歳で戦争に徴兵されたことがないし、香港の暴動で前歯をたたき折られたことがないし、ベネズエラの独裁政権下で停電と物資欠乏と警察の汚職に怯えたことがない。あるいは、宝くじに当たったことがない。

上記にしたことは私の持論である。ひろく運命論という。世の中のあらゆることの成り行きはあらかじめ決定されていて、人はそれをどうすることもできない、という意である

この論に賛成されるかたも、反対されるかたもいるだろう。私はそのことを、べつにどうとも思わない。そういうものだからだ。

私が話したいのは、ある種の特殊な構造をもつストーリーが、こうした運命論を読者に納得させる力をもつことだ。あるいは、べつの種類の構造をもつストーリーが、運命論を反駁する力をもつことだ

執筆:藤田祥平 編集:新見直

目次

  1. 自分の選択によって世界が変化を遂げるか
  2. 『The Red Strings Club』の提示する運命の赤い糸
  3. 変えようのない運命への対抗手段

自分の選択によって世界が変化を遂げるか

ちなみに、ここで問題となるのはストーリーの構造そのものであって、その内容ではない。

後者から話してみよう。なんでもいいが、『Detroit: Become Human』(デトロイト:ビカムヒューマン)、あるいは数多くの選択肢をもち、読者の選択によってエンディングが分岐するノベル・ゲーム(ストーリードリブンなゲーム)は、明確に運命論を否定している

『Detroit: Become Human』

プレイヤーの意思や好みによってストーリーが変化するということは、プレイヤーが選びたいと考え、採用した選択肢によって、(物語世界内の)運命が変化するということだ。

その変化の種類の多さや内容にかかわらず、こうした作品群は、メタレベルでプレイヤーにつぎのようなメッセージを伝える。つまり、あなたが採った選択が、世界を変える

これは明確な運命論の否定だ。

転じて前者──これは比較して数が少ないように思うのだが──においては、しばしば語り手や主人公は、継起する出来事にたいする超越的な視座を持ち、そうでない場合にも、運命論的なメッセージをメタレベルで伝える。

たとえばカート・ヴォネガット『スローターハウス5』の主人公は、「時間から解き放たれ」ており、時間軸上に存在するさまざまな「主人公」へと憑依する。そのためにこの主人公は、つねにちょっとした「ステージ・フライト」(舞台に立ってあがること)の状態にある。しかし、それも意味のないことだ。というのも、どの時間の自分に憑依して、なにをしようとも、なにも変わらないからである。

たとえば二十歳のシーンで、憑依した主人公が何をしようとも、五十歳になった主人公の立場や状況に変化はない。主人公は、ただわけもわからず、さまざまな時間軸上に「飛ばされ」ては、まごまごしつつ運命を体験するばかりである。

したがってこの作品は運命論的と言える。

(しかし、作品全体のトーンが悲観的というわけではない。主人公はそのことを、ある「時点」で受け容れるからである。そのことを理解したとき、私は二時間泣いた)

さて、この方法でいけば、『The Red Strings Club』(レッド・ストリングス・クラブ)は、明確に後者に分類される。

そして、この作品のすばらしいところは、運命論を標榜し、受け容れつつも、それに密かに対抗するための、唯一の手段を提示しているところにある。

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人はなぜ「運命を信じるのか?」