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2022.07.31
新型コロナウイルス感染症のパンデミックにどう向き合きあうのか。その問いが突きつけられているのは、雑誌も例外ではない。
『現代思想』『文藝』『SFマガジン』そして同人誌『中くらいの友だち 韓くに手帖』まで、その誌面を文筆家・仲俣暁生が紐解く。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)がパンデミックの様相を呈していった今年の春から初夏にかけて、多くの雑誌がこの特集を組んだ。
東アジアから欧州、そしてアメリカへと短期間に感染が広がり、世界的にみると収束するどころかいまなお拡大傾向にあるが、ひとまず中間報告としてこれらの特集を概括してみたい。
私が気づいたなかでもっとも早期のものは、『現代思想』2020年5月号の緊急特集「感染/パンデミック――新型コロナウイルスから考える」と、『文藝』夏号の緊急特集「アジアの作家たちは新型コロナ禍にどう向き合うのか」だった。
前者の冒頭にはジョルジョ・アガンベン、ジャン・リュック・ナンシー、スラヴォイ・ジジェクといった欧州の思想家が2月末から3月にかけてWebに発表した時事的な論考が置かれており、錚々たる論者がこの問題に関して活発に議論しているさまをみることができて興味深い。
執筆:仲俣暁生 編集:新見直
目次
- アガンベンの「例外状態」論とそれに対する批判
- 閻連科の発言と、それに対する日本からの応答
- ITによる克服への楽観と悲観
- 隣国・韓国からの報告
議論の口火を切ったのは、2月26日に投稿されたアガンベンの「エピデミックの発明」と題された短い文章だ。
ここで彼はイタリア学術会議による、このウイルス(SARS-CoV-2)の感染症は「毎年繰り返されるインフルエンザとそれほど違わない通常のインフルエンザである」との声明を引きつつ、にもかかわらず多くのメディアが過大に報じることで、まさしく「例外状態」(カール・シュミット)※を生み出していると批判した。
※編注:ドイツのカール・シュミットが政治論において唱えた用語。「例外状態」とは、法が宙づりになって無効化している緊急事態を指す
その後にCOVID-19が急速にパンデミック化していったことで、アガンベンのこの(やや先見の明に欠ける)言葉は再批判の対象になっていくのだが、いまなおその問題提起は有効だろう。
ロックダウンというまさに「例外状態」が日常化するなかで、人々の行動や生活の隅々まで監視や管理がいきわたる、まさに「生政治」(ミシェル・フーコー)※の実例が現実に可視化されたことで、この感染症は現代思想の重要な論点が試される機会となった。
※編注:君主制において殺す権利を行使した主権に対して、近代以降では、出生や人口といった「生きる権利」を管理することが政治権力となった。この支配構造をフーコー「生政治」と定義した
大きく分けるならば、立場は二つに分かれる。一つがアガンベンのように、あくまでもこの「例外状態」を拒否する立場だ。市民的自由や民主主義という根本理念を、たかだか「通常のインフルエンザ」によって手放していいのかという思想的立場をとる者にとって、現在の状況は情報過多による「インフォデミック」※にすぎないということになる。
※編注:「インフォメーション」(情報)と感染症の急速な広がりを意味する「エピデミック」を合わせた言葉。フェイクを含めて情報が氾濫し社会が混乱している状態を指す
だが現実に、中国や韓国、台湾やシンガポールといった東アジア諸国はウイルス蔓延に対して(ということは、すなわち国民に対して)早期から監視や管理を徹底したことで早期の収束を実現し、「例外状態」化への躊躇があったと思われる西欧諸国、とりわけアメリカでその後もながく感染拡大が続いていることをみると、パンデミック対策において「生政治」という観念を持ち出すことを否定するナンシーのような立場が現実的に思えてくる。
いずれにしてもこの災厄は各論者が以前からとっていた立場を強化する方向で働いており、現代思想が新たな状況を切り開く契機にはならなかったように思える。
では、思想ではなく文学は、いかにこのコロナ渦と向き合ったのか。
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