ハハノシキュウが観た「戦極MCバトル15章」の群像劇 ブームの先にいた本当の敵
2023.02.22
この世界を初めて“善”と“悪”に二分したのは、ゾロアスター教の創始者であるザラスシュトラであると言われている。英語読みでゾロアスター、ドイツ語読みでツァラトゥストラとも呼ばれる彼は、人類史における最初の宗教家だ。
時は紀元前1300~700年頃、飢餓、災害、疫病……現代と比べるまでもなく、人々の日常と死は隣り合わせにあった。
なぜ人は死ぬのか? なぜ人は苦しまなければならないのか? そもそも人は死んだらどうなってしまうのか? そんな形而上学的問いを前に、ザラスシュトラは1つの解答を示した。
“善神と悪魔が戦う混乱の時代が終わる1万2000年後の未来、主神アフラ・マズダーによって生者死者を含めた全人類が最後の審判にかけられる。その選別により悪人は地獄に落ち、善人には永遠の命が授けられる”。
この劇的とも言える善悪二元論は、人々の生きる辛苦の意味を未来に委託し、また善く生きることを推奨することで社会秩序にも貢献し、何より論理的でわかりやすかった。
後にこの天才的アイデアはユダヤ教、キリスト教、イスラム教など世界中の宗教・思想に多大な影響を与えた。
しかし、現代の知見を得た私たちにはわかる。善行を積んで遠い未来に幸せになる科学的根拠はないし、死んだ後のことは誰にもわからない。つまり、これは当時の社会を存続させるためのまやかしであると。そしてこの世界は、善悪の二項対立で語れるほど単純ではないと。
善人が悪人を退治する勧善懲悪の物語は、もはやジャンプの世界にすら(ほぼ)ない。
一見悪人に見える者にも事情(トラウマ)があるし、そこにあるのは基本的に異なる立場にある者たちによる欲望のせめぎあい、誰が自分の望みを叶えられるのかといった1つのゲームである。
……とは言うものの、では“悪”は存在しないのかと問われると、もちろん違う。かと言って、善悪を分かつ明確な線引きがあるのかと問われると、それも難しい。
では主人公サイドが脅迫したり人質作戦をとったり、または敵サイドが仲間を思いやったり自己犠牲を発揮する『HUNTER×HUNTER』という作品において、正義や善と悪を分かつ分水嶺とはいったい何なのだろうか。
そして、かつてない登場人物をもって交錯する各々の欲望の描かれ方とはいったいどういったものなのか。
本記事ではクロロ、メルエム、ツェリードニヒ、パリストンに焦点を当てそれらを階層的に読み解くとともに、とある人物の持つ“最悪の可能性”について語ろうと思う。
目次
- 『HUNTER×HUNTER』における“悪”の定義
- ハンターと幻影旅団を分かつもの
- もう一つの悪、あるいは「なぜ苦しむ人と苦しまない人がいるのか」という問い
- ルールを制定する存在としての王・ツェリードニヒ
- なぜパリストンは“王”よりも最強なのか?
- “差別”のない、最悪の可能性について
まず第一に、悪とはいったい何なのだろうか。
人を傷つけること、嘘をつくこと、法律を犯すこと、など思いつくだけでも無数にあると思うが、前述した通り『HUNTER×HUNTER』では主人公サイドが平気で“悪いこと”をする。
ゴンやクラピカは人質作戦をとることで仲間の命を救おうとするし、キルアに至っては元殺人鬼である。が、なぜかそれらの行為は“許されている”。
そこで、本記事では『HUNTER×HUNTER』における悪とはいったい何なのか、2つ仮定したいと思う。
1つは「無関係な人を巻き込むこと」だ。
それはかつてクラピカがウボォーギンに「関わりのない人間を殺す時 何を考え感じているのか?」と問うたように、ゴンがクロロに「なぜ自分と関わりのない人達を殺せるのか?」と問うたように、目的を達成するためには関係のない第三者を犠牲にすることを厭わない行為だ。先ほどのゲームの例えで言うと、ゲームはゲームのプレイヤーのみで行うこと、これが鉄の掟である。
逆に言うと、お互いがゲームのプレイヤーであるならば、基本的には何をしても許される。それこそゴンが人質をとっても作戦として認知されるし、クラピカは仲間の目を取り戻すために様々な際どい行動をとったことだろう。キルアのフォローもしておくと、彼はそんなゲームのプレイヤー以外を殺める暗殺稼業にうんざりして(結果的に)ハンターへの道を歩むことになった。
仲間を思いやることができ、故郷である流星街を守るために幻影旅団を結成したクロロ(達)が悪役なのはなぜか。それは端的に、自分達を守るためなら他人はどうなってもいいという、マイルドヤンキー的な思考の持ち主だからだ。
欲しいものを手に入れる、そのために何かを狩る……ハンターと旅団は本質的には似たような存在であるが、そういった倫理の枷が嵌められているかどうかという点で決定的に違う。
一応断っておくと、こういったマイルドヤンキー的な思考は冨樫義博作品全体に通底している。ナックルが私情を優先してモントゥトゥユピーを殴りに行ったり、レオリオが最終的にパリストンに投票したりといった様子は、肯定的に描かれているし感情移入しやすい。要するに度合いの問題である。
……ところで今回の『週刊少年ジャンプ』連載分(No.392~No.400)で印象的だったのが、旅団結成時のエピソード内で描かれた作中劇「清掃戦隊カタヅケンジャー」の物語だ。
魔黒大王のために世界を悪の汚れで覆い尽くす敵と、例え目に見えない場所の汚れであろうと汚れる度にキレイにするカタヅケンジャー。そのイメージは「現状の法体系で裁けないサラサを殺したような奴らを野放しにしないために、自分がより強大な悪党になる」という、歪んだ形でクロロに継承された。
そして、その旅団に親友や同郷の仲間たちを殺されたことを契機に旅団を野放しにできないと決意したのがクラピカであり、そこに興味深い連鎖反応が見られるのだが……少し脱線してしまうので割愛する。
言いたかったことは、敵役の台詞にあった「世界を悪の汚れで覆い尽くす」という、非常にテンプレートな思想についてだ。
なぜそんなオーソドックスな悪について今さら言及したいかというと、それを実際に実行しようとしたのが蟻の王であるメルエム(たち)だからだ。
国交を断絶した独裁国家で生まれた、究極の頭脳と力を持った外来種・キメラアント。彼らの目的は生物大統一、つまり人間という下等種を支配し世界を統べることにある。
蟻編は、「世界征服」という少年漫画の悪の代名詞が非常に高いリアリティラインでつくられているシナリオなのだ。それについては以前「『HUNTER×HUNTER』は蟻編のための物語である」という記事を書いたことがあるので、興味のある方は参照してほしい。
ただし、メルエムは先ほどから述べているような純粋な悪ではない。
生物としては弱いが盤上競技「軍儀」という一点において自分を凌駕するコムギとの出会いをきっかけに、メルエムは善と悪の狭間を反復横跳びしている。それは「自分より弱い人間という種には生かす価値があるのか」という判断基準だ。
メルエムという天秤を悪に傾けた原因は、人間側にもあった。それはハンター協会の会長であるネテロの選択、人類という種が産み出した悪魔兵器──大量殺戮と大量破壊のみに特化した時限爆弾「貧者の薔薇」である。
先ほど「ゲームのプレイヤー同士であれば何をしても許される」と書いたが、これは本当の本当にギリギリの手段だったのだと思う。いや、アウトだったのかもしれない。
だからメルエムは「人間は我々の贄である」と判断したし、シャウアプフは「卑怯」と言ったし、味方であるパームですら「これでは蟻と変わらない」と評したし、何よりネテロ本人が「これこそ人間の底知れぬ悪意である」と自覚していた。
ところで、『HUNTER×HUNTER』から読み解けるもう一つの悪について、そろそろ言及したいと思う。
それは「差別」だ。
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